下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館 伊東豊雄 諏訪の建築
設計者は伊東豊雄。伊東は『せんだいメディアテーク』『台中国家歌劇院』『TOD’S表参道ビル』『まつもと市民芸術館』などの作品で知られる世界の第一線で活躍する建築家である。『下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館』は、諏訪湖を暮らしてきた人々の生活の展示や、アララギ派の歌人である島木赤彦の足跡を展示している。1993年に竣工した、湖に沿っておおらかな弧を描く美しい建築である。より詳しく見てゆこう。
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の建築概要湖に捧げられた現象としての建築
湖に捧げられた建築
設計を始めてから終始私の脳裡を埋め尽くしていたのは、美しく時にミステリアスでさえあったこの湖の存在であった。主役は常に湖であり、建築は湖への捧げ物であった。このような場合、建築はできる限り単純な形態のほうがふさわしいと考えていた。
伊東豊雄「湖に捧ぐ」
『新建築』1993年7月号所収
設計者の言葉から明らかになるのは、この建築が湖への捧げ物であり、単純な形態によって湖を引き立てる存在だということである。眼前にひろがる雄大な諏訪湖は、そこに暮らしてきた人々にとって、時を教え、風を教え、様々な表情を浮かべる生活に欠かせないものであった。この建築は、諏訪湖のスケール感に合わせながら、湖に沿って緩やかなカーブを描く。伸びゆく建築の屋根はとても大きいのだが、湖と呼応しているためにスケールを逸脱している印象はなく、湖面にかかった虹のような軽快さを演出している。
諏訪湖の流れのなかに人がたまる
あそこは諏訪湖という中心があって、それに対してすべてが周遊運動をする場所だから、その流れの中にちょっとそれより大きなカーブをつくると、そこに人が流れながらたまる。そういう平面から来ている形ですね。
伊東豊雄『伊東豊雄の建築(1)1971-2001』
弧を描く一枚の壁に対して屋根が寄りかかったような建築なのだが、諏訪湖の湖岸のカーブよりも少しだけ大きいカーブを描くため、その膨らみに人が滞留することが意図されている。諏訪湖を周遊していると、建築の中に自然に引き込まれそうになるのは、設計者の描く絶妙なカーブの大きさによる。そもそも、設計者の伊東はソウルに生まれ、二歳半頃から父親の故郷である下諏訪へ引きあげ、少年時代の十数年を下諏訪で過ごした人物であり、その頃の自宅は諏訪湖に面していたという。それゆえ、諏訪のスケール感や自然の扱い方が肌に馴染んでいて、その肌感覚が建築に落とし込まれたのだろう。建築は諏訪湖と絶妙に調和している。
変様体としての外観は現象的である
そうではなくて、湖面に漂う靄とか、湖面に水平に立つ虹をイメージしていました。水平虹といって、年に二回くらい、寒い季節の朝に水平に立つ虹です。この建築では、そうした現象的なものを表現したいと思っていました。アルミのパネルを貼って水の色を反射して、水の流れや時間の経過にしたがって湖面が変わっていく様子を表現したいと考えていたのです。
伊東豊雄『建築の大転換』(強調筆者)
建築を設計する際のイメージは、船というよりも水平虹だったという。水平虹とは、湖のうえに水平にふわりを浮かびあがる淡い色帯を持つ、はかなく美しい自然現象である。伊東は、彫刻のように自身を主張する建築というよりも、単純な形態でありながらも都度に異なる表情を見せる「現象的なもの」を表現したいと考えていた。現象的なものを目指す考え方は、1986年の『横浜風の塔』という作品のコンセプトに明快に表現されているのだが、諏訪湖博物館では外観のアルミパネルとして表現されている。季節や時刻のうつり変わりに応じて、水や空を映し出す鏡のような外観は、形態を感じさせない現象的な表現となっている。
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の内部性諏訪湖の内部性を取り戻す建築
諏訪における内部感覚
伊東の建築には卓越した内部感覚が内包されているのだが、その内部感覚が諏訪湖博物館にも表現されていると感じるから、そのルーツをたどってみたい。諏訪の人々の生活は諏訪湖との関わり合いとともにあったのだが、湖における水との関わり合い方は、海における水の関わり合い方と少し違う。海は無限に開かれているが、湖は有限で閉じられているからである。諏訪湖の向こう側はどこまでも開かれているわけではなく、取り囲む山々によって閉鎖されている。諏訪の人々は、こうした自然の内部性とでもいえる感覚に敏感に反応して、特有の文化をつくりあげてきた。
たとえば、諏訪湖を挟んで上社と下社に別れた諏訪大社では、冬になると湖が凍結して亀裂が走り、一筋の氷がせり上がる『御神渡り』が発生して、男神が対岸の女神のもとへ向かう。これは湖の発想であり、海では起こり得ない発想である。なぜなら、海には向こう岸がないからである。湖と関わり合ってきた諏訪の人々には、ある種の完結した内部感覚が刻まれていたのである。少年時代を諏訪で過ごした伊東豊雄は、湖を囲む山々から成る諏訪盆地という原風景を持ち、卓越した内部感覚を胸に仕舞い込んでいたのだが、そうした美しい風景が失われることに敏感であった。伊東は諏訪を訪れた際にこう述べている。
私は最近諏訪の土地を時折訪れるが、湖周辺もさして美しい風景とは言えない。全国の温泉地によく見られる観光地の風景である。恐らくそれは、鉄道網や高速道路の発達によって完結した内部性が破壊されたからであろう。諏訪盆地はいまや外部を持ってしまったのだ。
伊東豊雄『伊東豊雄 自選作品集: 身体で建築を考える』
この言葉を見ると、諏訪博物館でやろうとしていたことが見えてくる。推測すると、伊東は諏訪盆地に内部性を取り戻そうとしたのだろう。それも、閉ざされた箱をつくるような排他的なやり方ではなくて、一枚の湾曲した壁をつくることによって生じる内部性である。
完結した内部感覚を意識した建築
少し遡ると、1970年代頃に閉鎖的な住宅をつくる日本住宅の文脈があり、坂本一成の『散田の家』や安藤忠雄の『住吉の長屋』などの閉鎖的な住宅が次々と設計され、伊東も『アルミの家』や『上和田の家』や『中野本町の家』という閉ざされた住宅を設計して、完結した内部をつくり上げることに夢中になっていた。閉ざされた白い内部を設計していた時期を経て、社会や外側に開かれた建築をつくってゆく伊東だが、その時でも、少年時代に獲得した研ぎ澄まされた内部感覚を完全に捨て去ることはなかった。
『シルバーハット』や『東京遊牧少女の包』においても、表面が皮膚や洋服のように軽やかな素材になったとはいえ、どこか閉ざされているような印象があった。閉じていながら、それでいて閉じた内部に気泡が入りこむように、内部に外部がこっそりと潜んでいるような雰囲気があった。凍った諏訪湖の表面をスケートを楽しむとき、氷に穴が空いていている場所があって、穴に落ちると上がれなくなる。諏訪湖の氷上の穴のような、見えない外部が内部の深いところにあるような、不気味な外部が内部のなか入りこむような、そんな匂いが伊東の建築にはある。やはり、諏訪において獲得された内部感覚が保持されていたのだろう。
藤森照信が指摘するように、伊東の建築は、内側と外側がずるずると繋がるというよりも、内部と外部が響きあうように反転してゆく。『せんだいメディアテーク』も『台中国家歌劇院』もそうである。私の印象では、伊東豊雄の建築には中間領域というものがなく、完結した内部の奥底に外部があると感じる。こう考えた時、1993年に竣工した諏訪湖博物館の内部とは一体なんだろうか? その答えは諏訪湖全体である。諏訪湖博物館は、閉じられた湖という閉鎖性を一枚の壁で可視化している。それは、建築内部を閉ざすようなものではなく、諏訪湖全体を湾曲した壁で閉ざして内部化しているのである。だから、この建物を反対側から見ると城壁のように閉ざされている。
諏訪湖を内部化するための動線計画
諏訪湖博物館を完結した内部にするというよりも、諏訪湖全体を内部として演出する。諏訪湖博物館において、諏訪湖は囲まれた中庭のようなものであり、いまや外部を持ってしまった諏訪の内部性を取り戻そうとする計画されている。一枚の湾曲した壁で囲むことによって、諏訪湖は完結した内部に近づく。当然、湾曲した壁一枚で内部が生じるわけではない。諏訪湖を内部化するという計画は、この建築の動線計画に仕掛けられている。
伊東が意図した動線計画はこうだろう。まず、エントランスホールに迷いこんだ訪問者は、光庭(ライトコート)からエレベータに乗って二階に上がる。エレベータは光庭のなかに立ち上がっているから、訪問者は光庭という外部に追い出されてしまうと同時に、気づかぬうちに湾曲した壁の外側へ導かれている。エレベータで二階へあがって扉が開き、二階に足を踏み入れたとき、訪問者は城壁の外に追い出されたことを知る。分厚い壁の外追い出された訪問者は、ガラスの床に反射した諏訪湖をみながら、壁に開けられた正方形の開口部に向かうしかない。開口部からは諏訪湖が見えている。
諏訪湖をフレーミングした開口部から、一枚の湾曲した壁の内側に、すなわち諏訪湖という完結した内部に訪問者は再入場する。自分の街へと帰ってきたかのように、城壁に開けられた開口部から諏訪湖へと入り直す。諏訪湖という内部に入場した訪問者は、展示室を周遊して各々の時間を過ごして、吹き抜けの階段から降りてゆく。まとめるならば、訪問者は湾曲した壁の外に追い出され、そして、湾曲した壁から内に入らなくてはならない。このダイナミックな動線計画こそ、諏訪湖を内部化するために伊東が仕掛けた策略だと思われる。鉄道網や高速道路の発達によって破壊された諏訪湖の完結した内部性は、巧妙な動線計画を通して、訪問者の内部感覚として取り戻される。だから、この順序を守ることをお勧めする。
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館を訪れた感想閉ざされた水平の世界、愛の疾走
この建築を訪れて感じたのはスケート場の雰囲気である。諏訪は、下駄にスケートの歯を取り付けた「下駄スケート」発祥の地として知られ、人々は諏訪湖を滑走していた。現代においてスケートをしたくなると、スケート場に出向いて料金を払わなくてはならないが、諏訪湖は天然のスケートリンクであった。また、下駄スケートという気軽さがよい。下駄に歯を取り付けた簡単なものなのだが、安価で手に入りやすく庶民は愛用していたという。こうした諏訪を舞台に繰り広げられた作品として、三島由紀夫の『愛の疾走』という風変わりな小説があげられる。
最新の設備を完備した、ピカピカに輝く近代的なカメラ工場で働く正木美代という清純な美少女、そして諏訪湖の漁村に住みながら、生活のために働く貧しく素朴な田所修一という青年、二人の距離が近づいたり離れたりする小説である。この小説は巧妙な構造を持っていて、二人の恋愛を見守る第三者として大島十之助という小説家が登場するのが特徴的である。売れない小説家である大島は、正木美代と田所修一に恋をさせて、その恋の様子を小説に描こうと画策する。つまり、物語を創造できない二流の小説家である大島は、少女と青年をモルモットのように扱いながら恋を演出して、演出されたロマンスを題材に一つの小説を紡ごうとする。この小説で着目したいのは、諏訪湖を用いた美しい表現である。三つほど並べてみよう。
湖の向う岸に眺めていたデルタ・カメラの建物が、突然自分と関係を持ち、幻の娘が急に現実の娘に変貌するほど、怖ろしいことがあるだろうか。
三島由紀夫『愛の疾走』
修一はその頬を、自分の頬で温めてやりたいとしか思わない。幻と彼の間の距離、あの冷酷な湖は消えてしまったのである。『ああ、この人と僕との間には、もう諏訪湖は存在しないのだ』それは彼にとって、ほとんど天変地位だった。
三島由紀夫『愛の疾走』
彼は夢うつつの中で、結氷した湖が向う岸とこちら岸をつなぎ、夢がそのまま結氷して堅固な現実の姿をとった様を思いえがいた。彼があんなに切なく考えた距離は、見かけのものにすぎなかった。それから彼があんなに怖れた、美しい娘とぶざまな自分との対比も、心配したほどのものでもなかった。二つの決して触れ合わなかった世界が溶け合って、接吻を交わしたのだ。
三島由紀夫『愛の疾走』
諏訪湖を通して、むこう岸とこちら岸が水平的に連続している。ドストエフスキーの小説のように、地下室と水晶宮が垂直的に対比されるのではなく、水平的な湖が二人の仲を切り離しているだけだから、諏訪湖の結氷によって二つの世界は一繋がりに連続して、二人の世界を隔てていた諏訪湖が今度は二人を結びつける。スケート靴を穿いた美代は、修一に会いに諏訪湖のうえを疾走する。結局のところ、結氷した諏訪湖が結びつけた二人の幸福な関係は、マスコミという外部の介入によって世間の眼にさらされ、一度は途切れて、美代はそのまま自殺を試みる。
諏訪湖周辺の完結した内部性が破壊されて、諏訪盆地はいまや外部を持ってしまったという伊東の言葉は、湖を介した水平的で閉じられた内部性の喪失を表現しているのだろう。それは、マスコミの介入によって邪魔された二人の絆のようなものである。このマスコミの介入には、売れない小説家である大島も一枚噛んでいる。要するに、情報社会という外部が、そして大島という小説家もどきの安易な介入が、すぐさま幸福な内部を破壊してしまう可能性を伝えていて、伊東はそれに自覚的であったのだ。感性豊かで繊細な美少女である美代が自殺してしまってからではもう遅い。
建築に引き寄せて具体的に考えるとより分かりやすいが、諏訪という完結した内部を持った地域に対して、観光PRなどの情報社会という外部を安易な形で持ち込んだり、地域活性化のための建築を安易に設計するのは危険であり、売れない小説家もどきの大島のように、建築家の安易な介入によって幸福が失われるかもしれないのである。それゆえ、そうした危険性に敏感であった伊東は、形態を持たない現象的な建築を設計して、諏訪湖の内部性を取り戻すべく、湾曲した一枚の壁をそっと建てることにとどめたのではないか。
伊東は、三島の『愛の疾走』に対してこう述べている。「主人公二人の生活環境が自然そのものの湖と白い箱のようなカメラ工場というコントラストに示されていて印象深かった。私が育った頃の諏訪も、盆地の閉ざされた自然の中に浸っている居心地の良さや安心感と、未だ見ぬ東京への憧れが同居していた
」と(自選作品集-p44)。湾曲した一枚の壁は、外側と内側をつくりだし、自然そのものの湖という内側の内部性を演出すると同時に、情報や労働に侵された私たちを、内部の居心地の良さや安心感へそっと結びつける玄関口として機能している。設計者の才知と感性に驚くばかりである。最後に訪れた感触を言葉にして添えておこう。
スケートリンクとしての諏訪湖― 下駄スケートが欲しくなる時
アンリ・ルソーらの素朴派の展示にほのぼのして、サルヴァドール・ダリの『不思議の国のアリス』の挿絵に不安にさせられて、後ろ髪を引かれる思いでハーモ美術館をあとにしながら、雄大な諏訪湖のほとりを歩いていると、二羽のカルガモが羽ばたいて、優雅に水しぶきをあげるから、素朴な感情のままにカメラを取り出して、フレームの中に鳥を閉じこめるのだが、カメラの中の鳥と目の前の鳥がまったく違くて悲しい気分になったから、カメラを鞄にしまって、今日はのんびり歩こうとため息をつく。壮大な諏訪湖では時間がゆっくり流れているようで、忙しさのはいりこむ余地はない。
冬の寒さが身にしみて、お腹も空いてきたのだが、不思議となにも食べたくない。いつもより小さな歩幅で歩いていると、湖の向こう側に銀色の蚕のようなものが見えるのだが、その輪郭は曖昧で、雨模様の空と湖に挟まれて、上下から押し潰された銀色の風船のようでもある。多分、柔らかい絹のような素材でできているのだろう。雨に濡れた昆虫のサナギのように、そっと葉陰に隠れているようで、物静かなたたずまい。今回の目的地である下諏訪町立諏訪湖には外観がないというのは真実である。湖に沿って建物に近づいてゆくと、湾曲したカーブの外観に誘導され、気がつくと壁に身を任せて歩みを進めていて、エントランスにたどり着いている。
黄色い楕円形の屋根がふわりと浮かんでいて、屋根の下が建物のエントランスになっている。黄色い一粒の涙のような、優しい形の屋根が美しい。エントランスに入ると、不思議な形の椅子が落ちている。細い脚で人の体重を支えるとは、なんて健気な椅子だろう。入場券を買ってそのまま直進して、明るい光庭に組みこまれたエレベータに乗って二階へ上がってゆく。二階に降り立つと、ガラス床に反射した諏訪湖が床に広がっている。顔をあげると、四角い開口部によって雄大な諏訪湖が切り取られているのだが、切り取られているのにもかかわらず雄大さを失わない諏訪湖に息をのむ。
開口部を通り抜けると、諏訪湖の風景が飛びこんできて感動する。諏訪湖をぐるりと囲む山々が、そのまま背後の壁にまで回りこんでいて、閉じられた一つの世界に包みこまれたように感じる(∗1)。カフカの小説みたいに世界の外側に追いやられるのではなくて、世界の内側にいるけれども、その内側のなかの端っこにいるような雰囲気で、包まれながらも一人ぼっちであるような、まるで胎児に逆もどりした気分を感じる(∗2)。なにかが恋しく、なにかが不足しているのだが、決して不幸ではなく、優しい幸福に満ちている。開口部を通り抜けたその瞬間から、建築の魔法にかけられて、別の世界に包まれてしまったのである。
きめ細やかな天井の肌は滑らかで、この身体の皮膚と呼応している。湾曲した堅固な壁を片側に感じながら展示を見たあと、紫色のソファに座り、ぽんやりと外を眺めて、ゆったりとした時間を過ごしていると、娘が滑るスケートリンクを眺める父親の心情を抱いた。諏訪湖というスケートリンク、そのうえで滑走する娘。もし娘ができたなら、綺麗な白いスケート靴ではなくて、素朴で無地の下駄スケートを買ってあげよう。氷の冷たさを肌に感じながら走りまわり、自由に踊ってる姿を見ていたい。
しばらく空想したあと、吹き抜けの階段を降りてゆく。エントランスの屋根とおなじ形の踊り場、エントランスの屋根とおなじ形の椅子、諏訪湖の気泡が散りばめられているようだ。この建築のせいだろう、時間の速度がゆっくりに感じて、バスを逃してしまった。この建築の時間の速度は、諏訪湖の時間の流れと同じくらい遅いから、忙しさのはいりこむ余地はないのだろう。次のバスを待たず、湖に沿ってのんびり歩こうとため息をつく。
季山時代
2022.12.11
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の建築写真
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