『建築をめざして』の表紙

建築をめざして ル・コルビュジエ / 1923

エスプリ・ヌーヴォーと簡単な経緯。

もっともよく知られるコルビュジエの著作である。コルビュジエは偉大な編集者であり、『エスプリ・ヌーヴォー誌』という雑誌を自らの手で編集し、発行を手掛けていた。この雑誌は、ドゥースブルフ、ロース、コクトー、ツァラ、グロピウスなどの名だたる人物に議論の場所を提供し、コルビュジエ自身も記事を連載していたことで知られる。『建築をめざして』は1920年から1921年にかけて連載していた記事を一冊にまとめたものである。橋・自動車・飛行機・船などの工学機械が賛美され、工学機械と同様の原理で建築は創られるべきだと謳われ、「住宅は住むための機械だ」という名言が飛び出すのである。

機械のように美しく構成された本。

コルビュジエは時計職人を目指していたから、精密な組み合わせて時を刻む時計のように、建築も精確な秩序を持って機械のように創られるべきだと考えた。まるでヴァレリーの詩のようである。本書の特徴は、工業製品の写真が幾重にも並べられていることにある。建築と工業製品の写真を並列することによって、建築と工学機械の類似性が視覚的に飛び込んでくる緻密な構成は、いかにもコルビュジエらしい。とりわけ、パルテノン神殿と自動車が並べられたレイアウトは印象的である。両者は、建築と工学という異なる分野にもかかわらず、標準を応用した洗練の産物であり、同様の在り方で美しいと語られる。

建築は感動を与える。

遠い過去に設計されたパルテノン神殿と、近い現在に設計された自動車、両者は同様のあり方で秩序立った美しさを持ち、人々を感動させると分析される。ここで見逃されてはならないのは、建築的感動という点。構造は壊れないようにするため、そして建築は感動を与えるため、とコルビュジエは書く。コルビュジエは機械を創るばかりではなく、その先にあるはずの建築的感動をめざしていた。建築は人々を感動させるために創られなくてはならない。現代において感動できる建築が幾つあるだろうか? 建築が在庫品のように扱われる現代において、コルビュジエの力強い言葉と情熱を見直さなくてはならない。建築か革命か? 革命は避けられる。

ル・コルビュジエの写真
ル・コルビュジエ @wikimedia1923年の初版における『建築をめざして』の署名は「ル・コルビュジエ=ソニエ」というものであった。ソニエはオザンファンという人物を表現していて、このペンネームはコルビュジエとオザンファンの共同署名を意味していた。しかしながら、ある時からソニエが削り取られ「ル・コルビュジエ」の単著となる。こうした経緯を追いかけてゆくと、若かりしコルビュジエが自己を確立してゆく葛藤が見えて面白い。
note

住宅は住むための機械である

「住むための機械」を要求するという考えを、それから私たちはまた、その機械が「宮殿」となり得るのだと主張することで、この生れたばかりの考え方をひっりかえしたのだった。そして宮殿という言葉の意味として、家屋のおのおのの機関が、全体の中に配置されるその値の高さゆえに、感動を興さしめるような関係にあり、意図の高貴さと偉大さを示すことに到ると考えたいのである。そしてこの意図とは、われわれにとっては「建築」だったのである。今日「住むための機械」の考えに没頭している人々は「建築それは仕えるもの」と宣言しているようだが、われわれはこれに「建築、それは感動させること」と答えたのだった。その結果、われわれは侮蔑的に「詩人」と非難されたのだった。

ル・コルビュジエ『建築をめざして』(強調筆者)
1928年の第3版のまえがき

「住宅は住むための機械である」というのはコルビュジエの一番有名な言葉であるが、この言葉には二つの意味がこめられている。一つ目は、船が浮かばなくてはならないように、飛行機が飛ばなければならないように、住宅は住むという最低限の機能を満たす必要があるという意味。そのために、住宅は自動車のように精密に構成されなくてはならない。二つ目は上記の引用に表現されたように、住むための機械としての建築が、今度は人々を感動させるという意味。

住むために精密に構成された機械は、高貴さや偉大さを示すまでに達して、今度は人々を感動させる宮殿になる。機械のように構成された建築が人々を感動させるのである。この二つ目の意味を見逃してはならない。こうしたマニュフェストは理論のままにとどまらず、建築として具体化されてゆくのが興味深い。たとえば、機械のように緻密に構成された『ユニテ・ダビタシオン』は住むための機械の実践そのものであり、人々を感動させ続けて止まない。

ル・コルビュジエ
ユニテ・ダビタシオン ©Denis Esakov
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