『建築:非線型の出来事』の表紙

建築:非線型の出来事 伊東豊雄建築設計事務所 / 2003

非線型の出来事としての建築行為。

住まうことと建てることの分離

したがって、住みながらつくるとは、決断や捨象を繰り返すゲームだと言うことができよう。かつての創造行為のように最終像、最適解を決定してしまうのでなく、絶え間ない生成を可能にするシステムへと変えることである。そのとき、建築をつくる行為は予測しえない出来事の連鎖となる。それは非線型の出来事となるのである(p16)

伊東豊雄建築設計事務所『建築:非線型の出来事』

伊東豊雄建築設計事務所が編著の単行本であるが、なかなか綺麗にまとまっているので紹介したい。『せんだいメディアテーク』という建築作品を中心にしながら、建築がつくられてゆく過程、建築をつくるうえでの思考、せんだいメディアテークのコンセプトが他の海外作品に発展してゆく様子などが豊富な写真とともに綴られてゆく著作である。とりわけ、はじめに記された「建築:非線型の出来事」という文章は、伊東の思考が凝縮されていて読み逃せない。多木浩二の『生きられた家』という著作に影響を受けた伊東は、住まうことと建てることの分離という問題に応答してゆく。

建てることという暴力

住まうこととは、人間が建築を自分事として使うことであり、建てることとは、建築家が建物をつくることである。住まうことと建てることの分離した現代において、建てることが住まうことの内実を規定してしまうこと、このことが建築家が答えなくてはならない問題である。すなわち、建てることは、建物を使うひとの自由を奪ってしまうという意味で一つの暴力であるから、この暴力にどう向き合うかに答えなくてはならない。たとえば建築家が部屋をつくるならば、建物を使うひとの活動は部屋のなかに閉じこめてしまう。建てることは建築家の一つの暴力なのである。

非線型の出来事の連鎖

建てることの暴力を熟知した伊東は、その暴力に真摯に向き合い続けた結果、住みながらつくるという可能性を考えはじめる。この手法を用いることによって、建築の理想像を使うひとに押し付ける建築家の暴力は抑制され、使うひとが自由に振舞うことができると考えるのである。こうした思想を実践してゆくならば、建築をつくる設計行為は予測し得ない非線型の出来事の連鎖になってゆく。建築家が一つの秩序を押し付けるのではなく、様々な出来事に遭遇しながら建築をつくりあげるということである。勘の鋭い人は分かるだろうが、出来事とはドゥルーズの哲学を踏まえたものである。

せんだいメディアテークの内観
せんだいメディアテーク ©scarletgreenせんだいメディアテークの内部は連続した空間である。チューブがその均質な空間を見出して、場所を発生させる、使うひとは各々の好きな場所を選ぶことができる。

せんだいメディアテークの建築設計の困難。

住みながらつくる

さて、こうした思索を展開するのは簡単だが、それを実際に建築に落としこむのが本当に難しい。伊東は、住みながらつくるという建築設計のあり方を、『せんだいメディアテーク』のチューブを中心に実現してゆくのだが、その設計の過程において、予測しえない数々の出来事に遭遇することになる。なぜなら、通常の場合において、プログラムは建築設計の以前に考えられているが、メディアテークにおいて、プログラムを考えながら建築設計が進められるからである。住みながらつくることは、「走り出した列車に乗りながら、足下の車輪やレールの機構を見直すようなもの(p51)であり、思わぬ方向へと暴走してゆく。

未決定な部分の逆襲

建築を自由に使って欲しいと未決定な部分を残すほど、未決定な部分が建築に逆襲してくる。使うひとが自由に振舞えるように建築に余白を残したからこそ、その余白が建築に襲いかかる。こうしたバランスの調整が難しいのは明らかで、「純粋なアイディアだけではこのコンペティション案は持ちこたえられない、建築中に自壊しかねない(p46)と本音が出てくる場面もある。非線型の出来事の連鎖の例をあげるならば、市民からのリアルな意見、地元新聞社からの非難、チューブの本数の決定、チューブの構造的な精査、法的な仕組みの検討、環境システムの検討、施工での困難等々……。住みながらつくるからこそ襲いかかる非線型な出来事の群れ。一筋縄ではいかない設計過程を描いたドキュメントは読み応えがある。

せんだいメディアテークの内観
せんだいメディアテーク ©scarletgreen (modified)

せんだいメディアテーク以後のプロジェクト。

設計過程における非線型な出来事たちが描かれてゆくのが当書の概要だが、それだけにとどまらず、『せんだいメディアテーク』以後のプロジェクトが記されていることも注目である。『国際決済銀行増築コンペティション応募案』、『ローマ国立現代美術館コンペティション応募案』、『広島メッセ・コンベンション・センタープロジェクト』というチューブを発展させた案から、『ブオナ・ビスタ・マスタープラン・コンペティション応募案』、『ブルージュ・パビリオン』、『リラクゼーションパーク・イン・トレヴィエハ』、『サーペンタイン・ギャラリー』、『アルメラ市ライブラリー・コンペティション応募案』などの応用系まで。これらが『せんだいメディアテーク』との関係のなかで生まれてくる過程を追うならば、伊東の視野の広さを感じることができるだろう。

note

建築における脚のエロティシズム

藤原紀香の美脚。

模型表現におけるチューブの素材はさまざまである。スライロフォーム、針金、ピアノ線、プラ棒、エンビパイプ、木のパイプなどなど。パンティストッキングを用いて、チャレンジしたことさえあった。これはまんざらでもない。チューブが現場に建ち始めた時、伊東豊雄事務所スタッフは密かにあるチューブに狙いを定め、藤原紀香の美脚への連想と妄想を楽しんでいた節があるからである(p101)

伊東豊雄建築設計事務所『建築:非線型の出来事』

上記の引用が印象深かったのは、伊東豊雄と脚の関係を浮き彫りにしているからである。そういえば、『多摩美術大学図書館』においても、アーチ状の柱をピンヒールのように細くくびれた柱だと表現していた。なぜ、柱が脚に見えるのだろうか…? カリアティードのように、柱を女性全体に見立てることはよくあるが、柱を女性の脚に見立てることは特殊ではないだろうか。妄想を膨らましてみるならば、せんだいメディアテークのチューブが網タイツに見えてこなくもない。透明な脚に網タイツが付けられて、網タイツが構造を支えている……? こう考えてみると、せんだいのチューブは構造体というよりも、皮膜そのものである気がしてくる。せんだいのチューブの一本一本が網タイツそのものであり、ピエール・モリニエの作品のようでさえある。

網タイツのエロティシズム。

網タイツの効果

なぜ網タイツはこうも魅力的なのか? 簡単に想像してみよう。第一に、脚にピタリと張り付いていること。網タイツはどのような脚にも、間隙を開けることなく張り付いて、その表面を覆い尽くしている。網タイツが覆い尽くした途端、いかなる脚であっても、網タイツに覆われた脚として存在してしまうから、中身の脚のあらゆる特性は奪われる。網タイツの効果によって、脚は匿名化されて性格を奪われる。こうした意味において、網タイツは脚を空洞化させる。中身の脚は、網タイツの効果によって不在として現前させられる。

視えない脚

第二に、網タイツの網目も重要である。これは、隠さないという意思表示である。「私の脚をいくらでも視ていいわよ、もう隠す気はないわ」という主張を意味しているのだ。脚を視る権利がこちらに差し出されているから、その無防備さに戸惑ってしまうに違いない。しかしながら、この無防備さは、網タイツが脚を空洞化させるという効果と相まって、奇妙な帰結を産みだす。それは、視ることが許されているけれど視ること許されていない脚、という帰結である。網タイツによって贈与される脚は、本当の意味での脚ではない。なぜなら、それは性格を奪われているのだから。そこで、われわれは困惑する。脚を視ることはできるのだが、真の意味で脚を視ることは許されない。われわれに残された選択肢は、諦めるか、網タイツを破るかの二択である。以上が網タイツのエロティシズムだとしてみよう。

特徴を奪われた柱。

『せんだいメディアテーク』に網タイツのエロティシズムを応用してみる。第一に、チューブは無防備にさらけ出されている。メタボリズムのコア柱は大抵の場合、こちらに何かを隠蔽していたが、チューブは何も隠すことはない。とはいえ、チューブは柱の性格を奪われている。透明な脚と感じたのは、網タイツによってあらゆる特徴を奪われた柱のことである。要するに、特徴のない柱が無防備にさし出されているのである。こうした意味において、チューブは建築表現の零度に近いところにあると思う。せんだいメディアテークは、柱が特徴的な建築ではなく、柱に特徴がまったくない建築なのである。こう考えるとき、伊東建築は別様に見えはじめるに違いない。

皮膜としての建築。

到達不可能なモノ

『神田Mビル』、『TOD'S表参道ビル』、『MIKIMOTO Ginza 2』などを再考すると、不思議なことに、網タイツに見えてきてしまう。内部を匿名にしてさらけ出す皮膜。そういえば、三島由紀夫はこんなことを述べていた。「真のエロティシズムにとっては、内面よりも外面のはうが、はるかに到達不可能なものであり、謎に充ちたものである」と。伊東は、永久に到達不可能な存在を皮膜によってつくり出す魔術師である。皮膜の魔術師としての伊東は、網タイツの効果によって、われわれを倒錯した窃視症へといざなう。

到達不可能なモノ

われわれは、到達不可能な脚を追いかけて、グラディーヴァの脚を追いかけてポンペイの街を彷徨うハーノルトさながら、あるいはシンデレラにガラスの靴を履かせるために脚を追いかける王子様さながら、奔放しなければならないのである。透明な脚はどこ……? 盗まれた手紙はどこ……? 建築はどこ……? 当然、そんなものははじめから存在していない。なぜなら、そこには皮膜しかなかったからである。『せんだいメディアテーク』の尽きない魅力はこのあたりにあるのかもしれない。さて、メモはこれくらいにして、『せんだいメディアテーク』に興味があるひとには一読をお勧めしたい。

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