『建築家なしの建築』の表紙

建築家なしの建築 バーナード・ルドフスキー / 1964

風土的、無名の、自然発生的、土着的、田園的な建築。

1964年にニューヨーク近代美術館で開催された「建築家なしの建築展」のために集められた写真をもとにしたカタログである。このカタログは、従来の建築史からは見逃されてきた「風土的、無名の、自然発生的、土着的、田園的」などと便宜的に表現されるような建築を、写真ともに豊富に並べたものであり、一枚一枚にルドフスキーの小さな解説が付けられている。これらは建築家なしの建築として大胆に編集されてゆく。無名の工匠たちの建築は、高貴な建築家という個人によって設計されたものではないが、生活の技術に満ち溢れ、感動を呼び起こす人間性を持つ。それゆえ、建築家なしの建築を学ぶ必要がある。

ドゴン族の集落
ドゴン族の集落 © René Boncompain (modified)本書で紹介される西アフリカのドゴン族の集落は、陸屋根の家と麦わら帽子型の家が混ざり合って魅力的な風景を生み出しているが、ここには高度に洗練された文化があるとルドフスキーは述べる。

西欧中心主義的な建築史への批判。

本書建築家なしの建築は、これまで建築史の正当から外れていた建築の未知の世界を紹介することによって、建築芸術についての私たちの狭い概念を打ち破ることを目指している。(p16)

バーナード・ルドフスキー『建築家なしの建築』

当書には世界各地から選び出された、都市、集落、遺跡、廃墟、街路、食糧倉庫、洞窟住居、などの豊富な写真が並べられ、独特の雰囲気を醸し出しているのだが、この書籍が衝撃的だったのは、西欧の合理主義や機能主義という近代建築の批判として機能したからである。ルドフスキーは、「これまでの建築史は、権力と富の記念碑を築いた建築家たちの紳士録みたいなものである(p15)と断定して、建築史が対象としてきた建築なるものの範囲の狭さを告発している。この告発はヴァナキュラー建築を再評価する世界的な潮流を生み出し、日本においても、原広司の集落調査などに影響を与えている。ぜひ読むべき一冊である。

サーマッラーの塔
サーマッラーの塔 ©Safa.daneshvar本書で紹介されるイラクのサーマッラーの塔は印象的である。ルドフスキーは「象徴的風土性」と解説を付けることによって、塔の象徴的な意味を救出しようとしている。
note

無名の工匠という幽霊と、その不気味さについて

無名の工匠たちからの眼差し。

不気味な建築

この著作のなかに豊富に並べられた写真を見ていると、これらの建築が素晴らしく想像力を掻き立てるものだと感じると同時に、その生々しい写真の群れが読者に何かを訴えかけて、不気味な印象を与えているように感じられる。この著作には、言葉にならない不気味さが包含されている。もし建築家がこの著作を読むならば、不気味さに囚われて逃れられなくなり、言い知れぬ不安に襲われるに違いない。そこで、著作の内容を大胆に解釈しながら、この著作の不気味さの由来を考えてみたい。

幽霊からの眼差し

結論を先に述べるならば、この著作が生じさせる不気味さの由来は、無名の工匠と名付けられた忘却された者からの眼差しだと考えられる。ルドフスキーは、正統な建築史が見ず知らずのうちに「建築家なしの建築」を排除して、その設計者である「無名の工匠」を無視していたということを告発したのだが、無視されていた無名の工匠の姿が当書に登場することはなく、「建築家なしの」という欠如として登場する。無名の工匠を敢えて実体化して言い換えるならば、幽霊として著作に登場していると言える。すなわち、無名の工匠は実態のない人物にすぎず、読者は彼の姿を想像することしかできないのである。

名付け親

読者によって無名の工匠が想像されると、今度は、無名の工匠が読者を見つめはじめる。こうなると、無名の工匠の眼差しを無視することは困難になる。なぜなら、幽霊は自分によって想像されるという点において、誰よりも身近な他者なのだから。この著作の素晴らしい点は、カタログとして膨大な写真を並べることに徹しながら、また解説を最小限に留めながら、それらの総体に「建築家なしの建築」という名前を、そして「建築家なしの建築」の総体の設計者に「無名の工匠」という名前を付けた点にある。その結果、無名の工匠という見えざる人物が捏造され、その人物の眼差しを浮上させることに成功したのである。

無名の工匠の存在

もし建築が、ある特定の建築家によって創作されたと分かれば安心する。人間をつくったのが神だと分かれば人間は安心するのと同様である。ただし、建築の創作者が未知なる者であり、その未知なるものが素晴らしいものを制作していると考えはじめたとき、正統な建築史のうえを走り続ける建築家は不気味さを覚えずにはいられない。無名の工匠、この不思議な存在は、この素晴らしい建築をどうやって設計したのだろうか? 無名の工匠、この未知なる存在はどうやって魅惑的な建築を思いついたのだろうか? こうした際限のない問いを考えはじめると、元の場所には戻れなくなってしまう。無名の工匠とは一体誰か…?

リンドソの穀倉群
リンドソの穀倉群 ©txindoki本書で紹介されるポルトガルの穀物倉で「エスピゲイロ」と呼ばれている。同様の形式を持つ倉庫はスペインにもあり、そちらは「ホレオ」と呼ばれている。

無名の工匠は名指されるまで存在しなかった。

幽霊としての無名の工匠

彼らは建築家とそのパトロンたちの役割をたえず強調し続け、その結果無名の工匠たちの才能と業績の評価をおろそかにしてしまったのだ。しかし、無名の工匠たちの思想は、時にはユートピアンたちに近似し、その美学は至高の域に近づいていたのである(p16)

バーナード・ルドフスキー『建築家なしの建築』

とはいえ、正統な建築史が無名の工匠を無視していたというのは事実ではない。というのは、無名の工匠は実際に存在していなかったからである。正統な建築史を走る建築家が無名の工匠を無視していたのではなく、ルドフスキーが無視された者として召喚しただけなのである。すなわち、無名の工匠は、ルドフスキーに名指されるまでは工匠ですらなかったし、建築家なしの建築は、ルドフスキーに名指されるまでは建築ですらなかった。無名の工匠は、ルドフスキーによって無視された者として召喚された幽霊であり、実際のところ、建築家は無名の工匠を無視することなく多くを学んでいただろう。

無名の工匠からの学び

ロージエの始原の小屋はもちろんのこと、コルビュジェは、トルコやギリシアの建築家なしの建築に感銘を受けて、自身の設計に取り入れたことで知られている。正統な建築史は無名の工匠を無視していた、と断定するのは早計である。少し目を凝らせば、建築家が風土的な建築から様々なものを学んでいたのは明らかである。では、無視された者として召喚された無名の工匠とは何者か…? ここにルドフスキーのトリックを見出すことができる。そのトリックとは、建築は誰かに創られたものでなくてはならないという建築家の枠組みを、ルドフスキーが戦略的に利用したというものである。

ルドフスキーのトリック

建築は誰かが創ったものであるというのは正統な建築史の論理であるが、この論理を援用することで、建築家なしの建築は無名の工匠によって創られたという道筋が立てられている。実のところ、無名の工匠は内実のない想像上の幽霊に過ぎないというのに。このトリックによって、ルドフスキーは幽霊を現代に呼び起こした。本著作が建築家に言い知れぬ不気味さを与えるのは、無名の工匠という未知なる幽霊による効果ではないだろうか。もし仮に、無名の工匠という幽霊が召喚されなければ、われわれは建築家なしの建築を、その総体として眺めることはできなかっただろう。さて、ここで見ておきたいのは、フィリップ・ブドンの分析である。

伏見稲荷神社
伏見稲荷神社 ©Инарискийルドフスキーは日本に滞在していたことでも知られている。本著作のなかにも日本の建築の記述が散見されて、見ているだけで楽しい。

建築家なしの建築は名指されるまで存在しなかった。

建築家の受け渡し

ルドフスキーのあの著作が、その表題からして「建築家なしの建築」が実際にあるのだとわれわれに思わせるのにもかかわらず、実はそれとは逆に、この著作はかくのごとき建築に着目しているこの建築家自身の思考に属する一つの建築的空間を、暴き出しているとはいえないだろうか。この書物は一人の建築家によって著わされたものであるから「建築家なしの建築」としてそれを提示するときにはじめて建築になると考えてもむしろ当然である。このことは、「建築家なしの建築」といえども即時としての建築あるいは実態としての建築ではないということである(p125)

フィリップ・ブドン『建築空間―尺度について』(強調筆者)

ブドンが注意喚起しているのは、建築家なしの建築というのは建築家の理論によって創作されたものであるということ。少なくとも、建築家なしの建築は写実や史実ではない。そうではなくて、建築家としてのルドフスキーが取捨選択しながら創作した建築なのである。ルドフスキーは、数多くの建築家なしの建築を設計しておきながら、自身が設計したことを打ち消して、無名の工匠という幽霊に設計を譲り渡したのである。この受け渡しこそが重要であり、これからヴァナキュラー建築が発見されるたびに、無名の工匠は設計者としての力を強めてゆく。

二人の人物

同じ一つのこと名指すためには二人の人物が必要である、とブランショが述べていたように、建築家なしの建築を名指すためには二人の人物が必要であった。ルドフスキーは無名の工匠を召喚することで、ルドフスキーと無名の工匠という二人の人物によって建築家なしの建築を保証した。無名の工匠としての幽霊は、建築家としての強大な権力を持ちはじめて、現在を生きる建築家は幽霊に不気味さを覚えてしまう。この幽霊こそ、著作を不気味にしている正体なのである。

死者の論理

ここで考えなくてはならないのは、ルドフスキーが召喚した無名の工匠にとの向き合い方である。無名の工匠は、正統な建築史のなかに強引に召喚された幽霊であり、死者に対する倫理と結びつくに違いない。もし建築家の論理によって、死者を建築家として引きずり出してしまったのならば、その死者に対しての責任を果たさなくてはならない。われわれは、無名の工匠と向き合わなくてはならない。それは、ヴァナキュラー建築の設計者を無名の工匠と名付けて安心することではなく、かつてヴァナキュラー建築を設計した人物を、われわれの知らないことを知っている未知なる他者として扱いながら、対話しようと試みることだろう。いずれにせよ、読んでおきたい必読の一冊である。

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