『さあ横になって食べよう』の表紙

さあ横になって食べよう バーナード・ルドフスキー / 1980

忘れられた生活様式を追いかけて。

生活様式から学ぶ

むしろ、私たちの生活が今よりも退屈でないものになりうるのだということを、それらの事例によって論証しようとするものである。したがって、本書の目的は、読者に何が良いことなのかを教えるのではなく、読者の批判的精神を刺激することである(p14)

バーナード・ルドフスキー『さあ横になって食べよう』(強調筆者)

『さあ横になって食べよう』は1980年に出版されたルドフスキーの著作である。ルドフスキーは1964年の『建築家なしの建築』で、風土に根ざしたヴァナキュラーな建築を、建築の歴史のなかに引きずり込んだ立役者である。当書においてルドフスキーが着目するのは、人間が作った建築ではなくて、人間自身のライフスタイルである。人間に根ざした生活、あるいは生活様式。具体的には、食事すること、座ること、清潔にすること、入浴すること、眠ること、という日々のなかで当然のように行われる生活様式が分析される。

生活を今よりも退屈でないものに

ルドフスキーは、生活様式にまつわる古今東西の文献をかき集めて、ビジュアルイメージとともに一気に並べ立てることによって、近代の生活様式がどれほど貧しくなっているかを暴き出す。これにより、読者の批判的精神を刺激して、日々の生活が今よりも退屈でないものになりうる可能性を魅せることが、この当書の目的である。ルドフスキー節のユーモア溢れる表現と並べられた図版の多さは、パラパラとめくるだけでも魅力的な読書体験を与えてくれるだろう。ここでは、簡単にまとめながら補足してゆく。

横になって食べること。

当書は題名が明らかにするとおり、横になって食べることについての記述から始まる。現代において、横になって食べることはだらしなさを意味しているが、過去を紐解くと、横になって食べるのは不自然なものではなかった。たとえば、全員が寝転がっている最後の晩餐の絵画がそれを明らかにしてくれる。また、寝転がっているばかりではなく、フォークを使わずに素手で食べていたこと、食事には大抵の場合はワインが伴っていたこと、などの証拠が幾つも並べられ、現在の食べるという生活様式がどれほど貧弱になっているのかが暴露される。それにしても、ルドフスキーは言葉選びの天才である。さあ、横になって食べよう、現代人にとって、この言葉ほど魅力的で挑発的な言葉はない。これを題名にして読者の心を刺激するあたりが、ルドフスキーのうまさである。

『さあ横になって食べよう』の表紙
英語版の表紙 @amazon上部の絵画は1633年頃に刺繍に描かれたものであり、全員が横たわって飲食している。下部の絵画は、ニコラ・プッサンの最後の晩餐のスケッチ。こちらも、全員が横になって食べている。

椅子に座ること。

食事することに続いて、座ること。子供は椅子に座ることを嫌うことなどから、椅子に座ることは社会的に押しつけられる矯正の結果だということが暴露されてゆく。そもそも、日本人は床に座って生活していたのだし、椅子に座ってじっとしているほど可笑しなことはない。マティスの『トルコの椅子にもたれるオダリスク』を見れば、椅子に座ることの不自由さが明らかになるし、カサットの『青い肘掛け椅子に座る少女』を見れば、椅子に留まることの退屈さが明らかになるだろう。要するに、椅子に座ることは必然ではないのである。こうした分析ははビジネスにも転用できるのは、「chano-ma」が人気を博している理由を考えてみればよい。

青い肘掛け椅子に座る少女
青い肘掛け椅子に座る少女 @wikimedia1878年にメアリー・カサットが描いた絵画。椅子に座ることによって、退屈を持て余して落ち着かない様子の少女が描かれている。

清潔にすること。

座ることに続いて、清潔にすること。たとえば、排便の姿勢は分かりやすい。現代において、和式便所は淘汰されて様式便所に取って変わられたが、しゃがみこんだ格好のほうが便は出やすいのは自明である。これは、社会が人々に衛生観念を押しつけていることを意味している。便秘という症状が蔓延しているのは、こうした衛生観念の押しつけに依るものであり、フロイトが明らかにしたとおり、衛生観念の押しつけによって、几帳面で倹約家で強情という性格になる可能性すらある。

分かりやすく言えば、かつてウンチは汚いものではなかったのであり、教育によって汚いものとして扱われるようになったということ。ウンチが汚いという衛生観念は、社会が押しつけた後天的なものであり、決して必然的なものではない。また、トイレットペーパーで尻を拭くことだって、よく考えたら奇妙な風習である。人々の尻はフロントガラスではないから、ワイパーで拭くのは奇妙なのである。座るということも、気づかぬうちに様々な制約に囚われてしまっている。

トワレ・インタイム
トワレ・インタイム @wikimediaルイ=レオポルド・ボワイーが描いた絵画。18世紀頃のビデの様子が描かれている。なぜウォシュレットは淘汰されないのか? TOTOの「ノズルきれい」などの執拗な努力は何に由来するのか?

入浴すること。

清潔にすることに続いて、入浴すること。たとえば、こんな記述は面白い。「中世やさらにさかのぼって文明が開花した時代には、結婚式が浴室で行なわれ、その参列者が、身体半分湯につかっているというのも珍しい光景ではなかった(p150)風呂場というのは、ただ身体を洗うための場所ではなく、様々な出来事が起きうる場所である。ご飯を食べたり、語り合ったり、愛を営んだりする。こうした可能性を捨てないことが設計のうえで重要であるのは、西澤立衛の『船橋アパートメント』の風呂場の豊かさを考えてみると分かるだろう。風呂場でだらつくことは自堕落なこととは限らず、より豊かな生活を送るうえで重要なものである。それに気がついたならば、風呂場に一輪の花を飾ってみることから初めてはどうだろうか?

中世の風呂場の一例
中世の風呂場の一例 @wikimedia1470年頃の中世の風呂場の風景。ルドフスキーによると、おそらく結婚披露宴中だとされている。こうした文化は自堕落なものだと批判されて、失われてしまう。

眠ること。

入浴することに続いて、眠ること。現在において、ベットで一人きりで眠りにつくことが多いが、もともとベットは人と人との暖かみを持った場所である。果たして、赤ちゃんにベットが必要だろうか? 赤ちゃんと母親は一緒に寝るべきではないだろうか? 吉本隆明が明らかにしたように、母子同室的なあり方が人格に影響を与えることもあることを忘れてはならない。また、日本では布団を用いて、その都度に居心地のよい場所に布団を広げることができたが、ベッドを使用することで人々はベットに閉じ込められる。ベットというのは、そこまで必然的なものではない。では、枕は…?詳細は当書を読まれたいが、ルドフスキーは数々の図版と文献から、当然のように行われている生活様式に疑問符を付加することで、読者を挑発してゆく。みずからの生活様式を相対化して、日々の退屈から脱出するにはおすすめの一冊である。

アンジェの黙示録のタペストリー
アンジェの黙示録のタペストリー @wikimedia14世紀後半のタペストリー。中世の芸術家が描くベッドの豊かさに対して、現代のベットの貧しさたるや、いかがなものか。
note

さあ、椅子のうえに立って食べよう

拘束されたその先にある共感。

椅子の可能性

当書のルドフスキーの批判はもっともである。とはいえ、生活様式が硬直しているという批判に対して同調することは、ルドフスキーの精神に反するだろう。ルドフスキーが行いたいのは、過去の生活様式を懐かしむことではなく、忘れ去られた生活様式を並列することによって、読者の批判的精神を刺激することである。「この本を読んで君はどんな生活をするの?」と問われているのだ。いったいどうすればよいのだろうか? みんなが座って食事しているレストランで、横になって食べればよいのだろうか? 当然、つまみ出されてお仕舞いである。果たして、椅子というのは人間を不自由に拘束するばかりなのだろうか…? ところで、ルドフスキーの引用してきたスケッチのなかで印象的なものがある。テーブルを囲んで二本脚をしてくつろいでいるスケッチなのだが、このスケッチをもとに座ることについて少しばかり考えてみよう。

くつろいでいるアメリカの若い学者 ©『さあ、横になって食べよう』から引用くつろいでいるアメリカの若い学者。エドワード・S・モースのドローイング」。(バーナード・ルドフスキー『さあ、横になって食べよう』鹿島出版会 p84より画像引用)

雰囲気の共有

このドローイングはエドワード・S・モースの描いたものらしいが、詳細は不明である。一見すると、学者たちは退屈しているのか、あるいはくつろいでいるのか分からないが、とりあえず寛いでいると仮定してみる。このドローイングが興味深いのは、椅子に座ることによって学者たちが寛ぎを共有していることである。彼らは一人ひとり、別々の椅子に腰掛けているが、全体として気分を共有することに成功している。すなわち、椅子という強制力によって個々に分断されているのだが、その強制力から逃れようとする方向へ各々が抵抗することによって、雰囲気の共有がなされている。こうした雰囲気の共有は、椅子なしでは起こりえず、椅子をという鎖に縛られてはじめて起こる共感である。ここに間主観性の題材を見出すことができる。

新しい椅子の使い方を考える。

それにしても、二本脚をする学者たちのモースのスケッチは興味深い。椅子には、そんな座り方は想定されていなかったのにもかかわらず、全員が脚を机のうえに投げ出しているからである。また、スケッチの右側の男は頭の後ろに手を組んでいる。これも椅子にとっては想定外の身体の使い方である。重要なのは、椅子が学者達を拘束することによって、その拘束から逃れようと、新しい身体の使い方が現象してくることである。脚を組んだり、貧乏ゆすりも同様だが、椅子という拘束ありきで現象する新しい身体の使い方は肯定されなくてはならない。椅子は人間の拘束具であると同時に、人間を新しい可能性へと切り開くものである。そして、その新しい身体の使い方がなんとなしに一様になることによって、人々は雰囲気を共有することができる。椅子に強制されるからではなく、椅子に強制されるからこその全体性がある。

曖昧な全体性の雰囲気。

椅子は、個々人を拘束するが、その拘束ゆえに個々人の居場所を平等に保証してくれる。各個人は椅子によって分断されながらも、椅子という強制によって生じる新しい身体の使い方によって、ある一つの雰囲気を共有することができる。各個人は自由であり、頭の後ろに手を組んでも組まなくてもよい。一人ひとりは、椅子によって隔てられているが、なんとなしに同時に机に脚を投げ出してしまい、曖昧な全体感を産み出すことに成功する。和気あいあいとした友愛はないかもしれないが、冷め切って無関心なわけではないような、絶妙な距離感の関係。この雰囲気は、なかなか居心地がよいように思える。英語版の表紙でみたような全員が寝転がっている最後の晩餐では、沈黙したら気まずくなるかもしれないが、モースのスケッチでは無言を許容する自由な雰囲気さえある。そんな可能性を見つけてみてもよいだろう。

さあ、椅子のうえに立って食べよう。

ルドフスキーのように、椅子を批判してみても仕方ないではない。そうではなくて、椅子を使うからこそ出来ることを考えてみよう。椅子を使わず、横になって食べるだけでは退化である。そうではなくて、椅子が新しい身体を切り開く可能性を、そして、椅子が新しい曖昧な全体性の雰囲気をつくり出す可能性を考えてみよう。さあ、横になって食べようなんてツマラナイ! さあ、椅子のうえ立って食べてみよう。みんなが椅子のうえに立って食べたなら、まだ見ぬ世界が広がるかもしれない。貧しい生活様式を批判するのではなく、貧しい生活様式のうえで新しい可能性を切り開くのである。

さあ、椅子のうえに立って食べよう。椅子のうえ、思い切り脚を投げ出しても、思い切り貧乏ゆすりしても、踊ってみてもいい。そんなことを考えながら、読んでみると面白い読書になるかもしれない。メモはこの程度にしておくが、いずれにせよルドフスキーの著作を読むのは刺激的で楽しいだろう。図版も多いし、文章もトゲがあって最後まで読ませるだろう。ぜひ一読をおすすめします。

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