『広場の造形』の表紙

広場の造形 カミロ・ジッテ / 1889

都市は芸術的な問題である。

幾何学的な都市計画へのアンチテーゼ

当書は、ウィーン生まれの建築家・都市計画家であるカミロ・ジッテによる1889年の書物の邦訳である。原著のタイトルは『Der Städtebau nach seinen künstlerischen Grundsätzen』であり、日本語だと『芸術的原理に即した都市計画』となる。ただし、当書の大部分が広場の分析にあてられているため、『広場の造形』として邦訳されて親しまれている。「芸術的原理」という原著のタイトルが示すように、都市を芸術的な問題としてとらえ直すことが主張された書物である。

当時、オースマンのパリ都市改造を模倣したような、直線的な幹線道路と幾何学形態に依拠した都市計画が主流であった。こうした計画は、都市計画家であるラインハルト・バウマイスターが1876年に出版した『都市拡張』に代表されるものであった。ジッテは、バウマイスターらの幾何学的配置に依拠した都市計画は、製図版のうえで合理的に計画されるのだが、芸術性にかけているのではないかと警鐘を鳴らす。

エトワール広場
エトワール広場 @wikimediaウィリアム・メイソンが描いたエトワール広場(シャルル・ド・ゴール広場)の図。ジッテはパリの都市改造を否定していた訳ではない。むしろ、バロック的な原理が蘇っていると褒めているくらいである(p164)。どちらかというと、パリ型の都市計画を安直に模倣した結果、芸術的効果を失った計画が批判されているる。とりわけ、現代のブロック方式の都市計画は繰り返し批判される。

広場から芸術性を学んで現代に適応する

では、芸術性をもった都市はどのようなものだろうか? 幾何学的な都市計画へのアンチテーゼとしてジッテが持ち出してくるのが、過去の広場や都市構成である。もし、過去を参考にしながら芸術的な原則を引き出すことが出来るならば、それを現代の都市計画に適応できるに違いない、と考えたのである。ただし、ジッテは過去の風景を無理やり現代に押し付けようとした訳ではない。そうではなくて、過去から学び、現代に適応可能な芸術的な原則を見極めることが重要だと述べるのだ。当然ながら、交通や衛生など、現代において要求されるものを無視して、ロマン的な世界に浸りこむことが推奨されているのではない。現代の生活の必要を満たしながら、そこに芸術的な効果をもたらすことが可能が問われているのだ。とりわけジッテを惹きつけた分析対象は、古典古代、中世、ルネサンス、バロックの広場である。

シニョリーア広場
シニョリーア広場 @wikimediaフィレンツェのシニョリーア広場。ベルナルド・ベロットが1740年頃に描いたもの。右奥の印象的な建物がヴェッキオ宮殿。いまも昔もよく使われている広場であり、ジッテが繰り返し賞賛する広場である。

広場は公共生活が展開される場所である。

歴史を紐解けば、かつてのギリシアやローマの古代広場は、公共生活の大部分が行われる場所であり、人が集まる活気あふれる場所であった。ギリシアのアゴラやローマのフォルムが、都市の中核であったことは周知の事実である。ジッテは、広場における公共生活の展開という伝統が、中世とルネサンス期にも引き継がれていることを指摘する。「中世とルネサンス期において都市の広場は公共生活の展開という点でいきいきとした実際上の用途をもっており、周囲の建物と調和のある関係をもっていた(p25)のである。しかしながら、現代の広場は開放された空虚なものばかりで、ほとんど使われていない。では、活気ある広場を取り戻すにはどうすればいよいのだろうか? 古典古代、中世、ルネサンス、バロックの広場を分析するジッテは、広場の芸術性に関するいくつかの原則を拾いあげる作業を開始する。

古代ローマの広場
古代ローマの広場 @wikimedia古代ローマでは、たいていの都市に政治・宗教の中心としてフォルムと呼ばれる広場が置かれていた。ローマの中心的なフォルムである『フォロ・ロマーノ』では、不定形平面のまわりに種々の建物が立ち並んでいた。

芸術的な広場における5つの原則。

ジッテが、広場を分析するなかで見出した原則を簡単にまとめると、以下の5つになるだろう。 ①広場の中央が自由にされていること、②広場が閉ざされた空間であること、③広場の大きさや形が工夫されていること、④広場が不規則な形を持つこと、⑤複数の広場群が結合されていること。簡単にみてみよう。

①広場の中央が自由にされていること

噴水やモニュメントが、広場の中央ではなく、交通の死角としての端に配置されること。建物が、広場の中央ではなく、ファサード全体が見渡せるように他の建物に沿って配置されること。

②広場が閉ざされた空間であること

広場は四方に開放された空間ではなく、限定されていなくてはならないこと。閉ざされた印象を保持するために、道路の入り方に工夫がなされたり、記念門や柱廊が駆使されていること。

③広場の大きさや形が工夫されていること

教会のような垂直方向に延びた建物に対しては、奥行の深い広場が用いられること。市庁舎のような水平方向に延びた建物に対しては、間口の広い広場が用いられること。いずれも、周囲の建物との関係のなかで、大きさや形が決定されていること。

④広場が不規則な形を持つこと

広場は歴史的発展のなかで少しずつ育まれているものであり、運河や道、あるいは建物の形などに影響を受けるため、明確な幾何学には従わないこと。不規則な形だからといって、即座に醜悪になるわけではく、調和の取れた印象を与えることも可能であること。また、不規則なほうが多様性を受け入れる余地があること。

⑤複数の広場群が結合されていること

広場は、建物のファサードに合うように複数にわたって群として形成されること。たとえば、ヴェネチアのサン・マルコ広場の平面が分かりやすいが、『サン・マルコ寺院』の正面には奥行が深い広場があり、『ドゥカーレ宮殿』の前面には間口が広い広場がある。2つの広場群が一つの場所に集められてみごとに調和して体験の流れを生じさせている。

サン・マルコ広場を描いた絵画
バシリカのあるサン・マルコ広場 @wikimediaカナレットが1730年頃に描いた作品。正面にあるのが『サン・マルコ寺院』であり、広場全体が美しく調和しているのがわかる。
サン・マルコ広場の平面
サン・マルコ広場の平面 @Internet Archiveカミロ・ジッテは上記のようなダイアグラムを描きながら都市を分析してゆく。メインの建物を黒く塗りつぶし、それ以外の建物を灰色で塗りつぶす明快な図版が立ち並ぶ様子は圧巻である。これは、サン・マルコ広場の平面であるが、左側の広場と右側の広場が、周囲の建物のファサードとの関わり合いのなかで調和しているのが分かる。
©Sitte Camillo(1922), Der Städtebau nach seinen Künstlerischen Grundsätzen , Wien : K. Graeser

広場の原理を現代に適応する。

ジッテは、広場の原則を分析するだけではなく、その原理をどう現代に適応させるべきかの具体的な提案をしている。そこでは、敷地を白紙にして新しく巨大な計画をするのではなく、既存の建物に対してアーケードや建物を増築することによって、それらの建物をつなぎ直すことによって、芸術的な効果を生み出すことが提案される。より具体的には、ウィーンの『ヴォティーフ教会』や『ウィーン市庁舎』に対して、小さな増築や改造を行ないながら広場をつくり出してゆき、それらの広場群を緩やかに結び付けてゆくのである。この提案は実現されなかったが、モダニズム以後の都市計画のあり方に近いこともあり、再評価されるべきだろう。

ここまで、簡単に『広場の造形』を傍観してみたが、その緻密な分析と調和を目指した無理のない提案は、評価されてしかるべきである。また当書は、ロンドンで田園都市を手がけたレイモンド・アンウィンやオランダの建築家であるベルラーヘなどに大きな影響を与えたことでも知られている。ぜひ、一読を勧めたい。

note

カミロ・ジッテの生涯と都市計画を傍観する

カミロ・ジッテの生涯。

カミロ・ジッテについて簡単に補足をしておく。ジッテは、1843年4月17日に建築家の父のもとに誕生した。1860年から1873年にかけて父親の手伝いをしながら修行を積み、同時に、ポリテクニウム(現・ウィーンの工科大学)とウィーン大学で学んでいる。その後、イタリアやドイツを旅行して様々な広場を旅している。1875年には、ザルツブルクに設立された国立工芸学校の校長となり、1883年にはウィーンに戻り、ウィーンの国立工芸学校の校長を務めながら、自分の事務所を設けて活動した。1888年に『広場の造形』を書きあげて有名になると、1901年からテオドール・ゲッケと共同して都市計画専門誌『都市計画(Der Städtebau)』の刊行に尽力する。この雑誌は1904年に刊行されるが、1903年にジッテは亡くなっているため、刊行を見ることを出来なかった。

カミロ・ジッテの顔写真
カミロ・ジッテ @wikimedia

オロモウツの都市計画(チェコ)。

ジッテは都市計画に関する著作を書くだけでなく、実際の都市計画の提案も行なっている。たとえば、チェコ中部のモラヴィア地方のオロモウツという都市の拡張計画である。オロモウツは、もともと防御壁が張りめぐらされていた都市だが、防御壁が撤去されることが決定し、撤去後の土地が市に買収されることが決まる。そして、市に買収された土地の計画を立案する際に、ジッテに白羽の矢が立てられる。ジッテは、1894年に計画案を策定、旧市街地を取り巻くような住宅配置計画や公共施設配置計画、既存の川を無視することのない無理のない配置計画、凹凸をもって中庭に開かれた街区などが提案された。とりわけ、西部に150m幅を持つ緑地帯が計画されたことは重要で、緑地帯によって住宅地域と工場地域を切断する方法は、コルビュジエさながらである。

1757年のオロモウツの地図
オロモウツの防御壁 @wikimedia1757年頃のオロモウツの防御壁。
オロモウツの都市計画図
オロモウツの都市計画 ©Muzeum umění Olomoucカミロ・ジッテが1895年に描いたもの。

マリエンベルクの都市計画(ポーランド)。

また、ジッテはポーランド北部にあるマリエンベルクにも計画案を提出している。こちらは1903年に作成されたものだが、広場の取り方に特徴がある。道路がズレながら一つの場所に集まり、小さな広場が形成される「タービン型広場」と呼ばれる区画のつくり方は、広場の分析を活かしたジッテならではの仕掛けである。「タービン型広場」の都市計画は、計画段階で仕組まない限り生まれないものだろう。また、幾何学を避けながら、既存の地形を活かした配置計画にこだわり、ピクチャレスクな風景を生み出そうとしているのが見て取れる。

オロモウツの都市計画図
マリエンベルクの都市計画図 @Der Städtebauリエンベルクの平面図。カミロ・ジッテが描いたもの。
マリエンベルクのスケッチ
マリエンベルクの教会と平面 @Der Städtebauリエンベルクの教会のスケッチ。カミロ・ジッテが描いたもの。小さなみど
タービン型広場
タービン型広場 @Der Städtebauジッテは『広場の造形』を書きあげたあと、土地収用の問題に向かう、そこでは、幾何学的な街区が批判され、昔ながらの街路の構成を優先させた配置が提案された。

ジッテの勇敢さに学ぶ。

『オロモウツの都市計画』にしても、『リエンベルクの都市計画』にしても、既存の敷地を活かしながら人々の居場所としての芸術的な広場をつくろうとする勇敢な試みは、コンテクスチュアリズムにも繋がる視点だろう。ただし、ジッテの分析は芸術的な観点に絞られているがゆえに、技術的な側面は甘いのは知られている通りである。また、当書において批判されている幾何学に頼ったブロック型の都市計画が、別の方向から多様性を生み出すことを分析してみせたコールハース『錯乱のニューヨーク』と比較してみるのも面白いだろう。とはいえ、1889年というはやい時期に、幾何学的な都市計画を批判した勇敢さは見習わなくてはならない。やはり、都市には芸術的な観点が必要だろう。

さて、メモはこれくらいにしておくが、カミロ・ジッテの『広場の造形』は、都市が芸術的でなくてはならないということを、精緻な分析で示してみせた名著である。数多くの広場の事例、平面の表記法も面白いので、ぜひ一度は読んでおきたい。

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