都市の景観 ゴードン・カレン / 1971
タウンスケープの登場。
ゴードン・カレンは1947年頃からアーキテクチャー・レビュー誌にタウンスケープ論を発表し始めて、その成果を『TOWNSCAPE』と題された本にまとめ、1961年に出版する。これは大きく反響を呼んだので、1971年に「都市調査」と「提案」の章が削られて、新しく「1971年版序文」と「結び」が加えられた簡易版が出版される。この簡易版を邦訳したものが当書である。当書の題名は『都市の景観』と訳出されているのは、トーマス・シャープが1968年に出版した『TOWN AND TOWNSCAPE』という著作の題名が『タウンスケープ』と訳出されているため、重複を避ける意図がある。いずれにせよ、1960年頃から「タウンスケープ」という言葉が姿を見せはじめたと考えてよい。
タウンスケープと環境の技法。
〈タウンスケープ〉の定義を求められたら、私は、ひとつの建物は建築だが二つの建物はタウンスケープであると答えるだろう。二つの建物が併置されると、そこにタウンスケープの技法が生じる。それと同時に、建物相互の関係と建物の間のスペースが重要な問題になってくる。これを都市のスケールまで拡大したものが環境の技法である。(p174)。
ゴードン・カレン『都市の景観』
(強調筆者)
カレンは「タウンスケープ」を上記のように定義する。なるほど、建物が2つ以上並べられたときにタウンスケープが登場して「タウンスケープの技法」が生じる。それが都市スケールにまで拡大したとき環境が登場して「環境の技法」が生じる。カレンは「環境からは多くの楽しみとドラマを引き出すことができる
」(p261)と主張する。それらの楽しみとドラマは、平凡で主観的な状況なものであるかもしれないが、客観的な論理的な価値観が蔓延することによって失われている。だから「環境の技法」を分析し、普及する必要があるという。
環境の技法と景観のスタディ。
「環境の技法」という章では、3つの小見出しが付けられる。「連続する視覚」では、〈目のまえにある光景〉と〈出現しつつある光景〉の連鎖のシークエンシャルな効果が、「場所」では、〈ここ〉と〈あそこ〉のドラマティカルな効果が、「内容」では〈これ〉と〈あれ〉の相互作用の効果が、様々な事例の写真と美しいスケッチによって明らかにされる。「景観のスタディ」という章では、都市をどのように良くしてゆくのかが、より具体的に提案されながら論じられる。広場について、路面について、街灯について、広告について等々…。
多数の写真と美しいスケッチの断片。
さて、『都市の景観』の魅力は散りばめられた多数の写真と美しいスケッチだろう。そこには、カレンの眼によって丁寧に選定された写真、カレンの手によって丁寧に描出されたスケッチが散りばめられていて、読者に視覚的な喜びを与えている。カレンの試みは、都市体験における視覚を重視しすぎていると批判されることも多いが、タウンスケープという言葉を片手に、分かりやすい理論で主体の喜びを謳うことで、多くの人の共感を得た点で重要である。都市デザインのヒントを探している方は、ぜひ手に取って見て欲しい。
都市のピクチャレスク
ピクチャレスクの美学と方法。
絵から学ぶこと
タウンスケープ派の考えを支えていたのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけてイギリスで流行したピクチャレスクの美学である。ピクチャレスクにおいて、優れた画家が自然を描いた風景は、眼前にある自然そのものよりも素晴らしく感じられるから、今度は、眼前にある自然を絵のような風景へと作り変えることが狙われる。オリジナルとコピーの反転。この前提にあるのは、自然を描いた一枚の風景は、実際の自然より理想的だということだろう。ここでは、ピクチャレスクを語るうえで重要になる、ユーヴドール・プライスという人物を簡単に見ながら、ピクチャレスクと都市の関係を考えてみたい。
ブラウンを批判するプライス
プライスは1974年の『ピクチャレスク試論』において、「粗さ」「急な変化」「不規則性」をピクチャレスクの重要な要素として挙げ、絵画の構成原理を庭園に活かすことを提唱した。その結果、景観は、単調さや退屈さを免れるのではないか、と考えたのである。これはランスロット・ケイパビリティ・ブラウンに代表されるような、なだらかで水平に伸びゆく風景式庭園への批判として生み出された理論であった。要するに、ブラウンの庭園は退屈だから、粗さや変化といったピクチャレスクの要素が必要だということ。そうすれば、巨匠の描いた絵のような、退屈しない風景が生まれるに違いないではない。ナイトの『風景』における挿絵が分かりやすいが、ブラウン式の庭園が批判され、ピクチャレスクな庭園がめざされる。
ピクチャレスクを都市へ応用する。
広大なニュータウン
さて、ゴードン・カレンもプライスと同じような視点を持っている。ただし、対象は庭園ではなくて都市である。カレンにとってのブラウン流の風景式庭園は広大なニュータウンである。そこには、「緊張、ドラマ、囲い込まれた感じ、新鮮な驚きなどはどこにも見出せない
」(p184)。しかしながら、都市には、緊張やドラマが必要である。そこで、連続する視覚が必要であり、こことあそこ、これとあれ、といった対比などを用いて「緊張」「ドラマ」「新鮮な驚き」を演出しなくてはならない。そうすれば、退屈しない都市が生まれるに違いない。このあたりが、プライスのピクチャレスク美学と重なる部分であり、カレンがピクチャレスクの伝統を受け継いている箇所である。言ってみれば、カレンは都市のピクチャレスクの提唱者なのだ。
都市のピクチャレスク
18世紀にプライスが「ランドスケープのピクチャレスク」を語ったように、20世紀にカレンが「タウンスケープのピクチャレスク」を語っている。カレンをピクチャレスクへと結びつけるのは強引かもしれないが、カレンの試みを英国のピクチャレスクの伝統のなかで捉えることによって、18世紀に行われた芳醇なピクチャレスクの議論を、そのまま20世紀の都市論へと持ち込むことができるだろう。前者は庭園をつくろうとし、後者は都市をつくろうとする。前者はブラウン流のなだらかな風景式庭園を批判し、後者はプレーリー・プランニングのなだらかなニュータウンを批判する。ランドスケープとタウンスケープ。一体、カレンとプライスを並べるとき、何が見えてくるだろうか…?
ピクチャレスクと表面の美。
表面の美と視覚要素
まず、ピクチャレスクの弱点を考えよう。18世紀のピクチャレスクが、単なる視覚美という表面の美へと堕ちていったというのが一般的な理解だろう。カレンが当書に散りばめるのは、様々な要素が組み合わされて緊張やドラマが生み出されている状態の都市のスケッチと写真達である。確かに、それらの都市のスケッチや写真はピクチャレスク性を持っていて魅力的である。しかしながら、それらの都市のスケッチや写真達は、所詮、視覚を喜ばせるものでしかない。というのは、世界そのものを「眼の額縁」を通してみるというピクチャレスクの感性の延長線にあるからだ。 いくらカレンがシークエンスによる「連続する視覚」にドラマを求めたとしても、あらゆる要素は視覚を喜ばせること以外の役割を持つことはできない。視覚は喜びに満ちてゆく、ただそれ以上の感動はあるのだろうか…?
視覚要素の優位
カレンは、あらゆる要素を表面の視覚の問題へと落とし込んでゆく。たとえば、フロアスケープにおいては地表面の多様性と個性が必要だと主張され、ウォールスケープにおいては「あらゆるウォールスケープを絵画とみなすことができる
」(p212)とまで述べられる。視覚的喜びに焦点を当てた結果、あらゆるものは視覚的な表面へと還元され、テクスチャや色彩の話へと落とし込まれてしまう。それらの視覚的要素をシークエンスに沿って並べたところで、丁寧に構成されたドラマが産み出されるだけに過ぎない。良くも悪くも蜷川実花監督作品の映画のような…。当然、それはあまりに視覚的すぎると同時に、作為的であるがゆえに批判の対象となる。たとえばコーリン・ロウは『コラージュ・シティ』のなかでこう語っている。
しかし、タウンスケープが理念だった場合と比べると、実用面では、タウンスケープは弁護しにくいものがある。理念としては、それには非常深い、《アクシデント》の理論が含まれていたが、実用面では、タウンスケープは常に魅力的な言葉、《アクシデント》に完璧に対応しうる指示物を欠いていた、したがって、その結果として、それは無計画な感動をあたえるような、心でなく目にしか訴えかけないような、また知覚的な世界を巧みに支援する一方で概念的な世界の価値を低めるという傾向にあった。(p174)。
コーリン・ロウ『コラージュ・シティ』
(一部省略・強調筆者)
ドラマティックな出来事は起き得るか?
なるほど、カレンの『都市の景観』では、18世紀におけるピクチャレスクにおいてプライスが好んだような「粗さ」「急な変化」「不規則性」が、「緊張」「ドラマ」「新鮮な驚き」と言葉を変えながら、重視されている。しかしながら、そうした「新鮮な驚き」が目に訴えかける視覚効果としてしか扱われておらず、それゆえ《アクシデント》に欠けていると批判される。カレンは述べる。「その目的は、建築物、樹木、自然、水、交通、広告など、あらゆるエレメントを活用して環境を創造することにある。そこでは、これらのエレメントを織りあわせてドラマを生み出すことが、テーマになる。都市そのものが、環境におけるドラマティックな出来事に他ならない
」(p12)。なるほど、カレンにとって、都市はクロード・ロランの絵画のように、エレメントで構成されているに過ぎないものである。
ドラマティックな出来事とアクシデント
カレンの主張するようなドラマティックな出来事は、エレメントによって構成されたものに過ぎないから、本当の意味での《アクシデント》足り得ない。本当の意味での《アクシデント》というのは、都市デザイナーによって構成されたり、演出されたりしないものである。本当の意味での《アクシデント》は、映画監督によって慎重に演出されたドラマではなく、演者のアドリブであったり、機械の故障であったり、動物の乱入であったり、映画監督が予期できないものである。そうした予期できない《アクシデント》が都市には必要である。要するに、都市には《アクシデント》が必要だが、それは意図的つくれない。そして、カレンの理想の風景美は、《アクシデント》に欠けている。
とはいえ、都市デザイナーは一体どうやって《アクシデント》を都市につくることができるのか? ここで、18世紀のピクチャレスクのたどった道を再確認してみると、興味深いことが分かるに違いない。というのは、18世紀のピクチャレスクにとって、本当の意味での《アクシデント》が「自然エネルギー」であるということが見えてくるからだ。18世紀のピクチャレスクは、「自然」に目を向けて、自然のの運動性や躍動性という「自然エネルギー」という《アクシデント》を見出すことによって崩壊した運動なのである。一体、どういうことか?
ピクチャレスクにおける自然。
ピクチャレスクという運動
ピクチャレスクとは観察の美学であった。あらゆるものを表面へと還元してつぶさに観察するなかで、表面の「粗さ」というものに自ずと目が向けられた。滑らかなものは美しく、粗いものはピクチャレスクである。彼らは、よりピクチャレスクな風景を求めて、自然を参考にしながら「粗い」ものを追い求め続けた。 そして最終的に、彼らはあるがままの自然がもっとも粗いということに気が付いてしまう。自然を参考にしながらピクチャレスクを追い求めた結果、あるがままの自然がもっともピクチャレスクであるという偉大な発見をしてしまう。 すなわち、巨匠のような風景を実現するためには、何もせず、自然に任せておけばよいことに気がついてしまったのだ。この逆説こそが、ピクチャレスクの醍醐味である。より詳しく見てゆこう。
ピクチャレスクの逆転
そもそも、ピクチャレスクの創立者であるギルピンにおいて、理想的な風景美のために、眼前の自然を、画面上で修正することは許されていた。自然を参考にして理想的な一枚の風景を描き、その修正された一枚の風景を探しにゆくピクチャレスク・ツアーが行われた。すなわち、ピクチャレスクの初期の段階において、オリジナルとコピーには差異があり、修正されたコピーの方が優位であった。この段階において、オリジナルを修正したコピーの方がピクチャレスクである。この理論が通用するのは、ギルピンが観察者すぎず、旅行記を書くだけだったからである。要するに、ギルピンは創作者ではなかった。しかしながら、それはプライスのピクチャレスクにおいて逆転する。プライスは、単なる観察者ではなく、造園の創作を視野に入れた創作者だったからである。
オリジナルの再発見
プライスは創作者であった。だから、問題になるのは、いかにピクチャレスクな風景を描くかではなく、いかにピクチャレスクな風景を現実に創るのかである。オリジナルの自然を参考にしながら、一枚の美しいコピーの絵を描くのは簡単である。しかしながら、絵と現実の造園は異なる。オリジナルの自然を参考にしながら、美しいコピーの自然をつくることが困難であるのは、ある決定的な事実が浮かび上がってしまうからである。その決定的な事実とは、オリジナルをコピーした自然は、いくら美しく見えるように修正を施したとしても、所詮コピーに過ぎず、オリジナルに敵うことはないという事実である。すなわち、修正されたコピーよりも、修正しないオリジナルの方が、よりピクチャレスクなのである。だから、庭園の創作者としては、極力オリジナルに手を加えないことが最善策である。こうしてプライスはオリジナルを絶賛する。
芝地や着飾った地面と比較した場合、「改良」されていない猟園や森は素晴らしい多様性や豊かさに溢れており、またそれを画家達は絶賛するが、その最大の理由は木々やその集まりが単独であったり結びついてなかったりすることはめったにないということである。このことの、そして自然の類まれな景観美全ての二つの偉大なる源は、偶然と放置である。(p248)。
ユーヴドール・プライス『ピクチャレスク試論』
今村隆男 『ピクチャレスクとイギリス近代』より引用
(強調筆者)
ギルピンは観察者として美しいコピーを書き続ければよかったが、プライスは現実に庭園をつくろうとした。このとき、ピクチャレスクの魔法が解ける。プライスの帰結は、何も手を加えず放置することであった。オリジナルとコピーを反転させ、ドラマティックなコピーにオリジナルを寄せてゆこうとしたピクチャレスクの結論は、オリジナルをそのままにすることだったのだ! 「粗さ」「急な変化」「不規則性」を実現するためには、何も手を加える必要はなく、偶然と放置に身を任せればよいのである。しかし、それを宣言した途端、すべてがピクチャレスクの美学は崩壊する。オリジナルがよい、ただそれだけのことなのだから。こうして分かるのは、ピクチャレスクがオリジナルとコピーの差異に依存する運動だったということだ。
ピクチャレスクの終焉
ピクチャレスクとは、オリジナルとコピーの差異が産み出す運動であった。初期のピクチャレスクであるギルピンは、オリジナルとコピーの差異を生み出した点でピクチャレスクの堂々の創始者であった。観察者によって産出された、オリジナルとコピーの差異こそが、ピクチャレスクを突き動かすのであり、その差異が消滅した時点においてピクチャレスクは終焉を迎える。だから、プライスが「オリジナルがよい」と宣言して以降、ピクチャレスクは衰退する。歴史のなかの運動はいつもこうである。オリジナルとコピーには差異がなくてはらならず、その差異を縮めることに提唱者は命をかけるが、その差異が零になった途端に運動そのものは息絶える。モダニズムが、モダニズムを徹底したジャッドによって終焉したようなことである。ピクチャレスクはピクチャレスクの徹底によって震えながら消失する。自然は素晴らしい、その一言だけを残して。
偶然と放置、そして廃墟
プライスは、オリジナルな自然に手をつけないことを決意する。いまや美しいコピーを創ることではなく、オリジナルを整えることをせず、「偶然と放置」に身を任せることこそ重要なのである。プライスは、既存の土地を更地にしてなだらかな風景をつくりあげるブラウン流の風景式庭園に対して、何も手を加えないオリジナルの自然というものを対置する。凸凹の道であり、崩れかけた土手、曲がりくねった羊道…。極め付けは、廃墟である。プライスは、何もしないことを決意したがゆえに、今度は、自然のエネルギーを目の当たりにすることになる。ギリシアの神殿であれど、民家であれど、自然のエネルギーによって時間と共に廃墟と化してピクチャレスクな風景になる。自然のエネルギーが凡ゆるものをピクチャレスクへ変化させること、この気づきこそプライスの遺産である。少し長いが引用しよう。
ギリシャ建築の神殿や宮殿は、全く完全な状態で表面や色彩もなめらかで一様であれば、絵画の中であろうと実際に建っていようと美しい。廃墟になっていればピクチャレスクである。このような変化の偉大なる主役である時間が、美しいものをピクチャレスクに変えるプロセスを観察しよう。まず、風雨によってしみが出来たり部分的に何かが付着したり、苔がついたりすることで廃墟の表面や色の一様さは失われる。つまり、ある程度の粗さや色彩の多様さが生じるのだ。次に、偶然の天候によって石材が緩み、おそらくはかつて滑らかな芝地やきれいに刈り込まれた小道や植え込みだった所に、不規則な固まりになって転げ落ちる。そして、崩れ落ちた廃墟の上に伸びて来ている自然の草や蔓植物に覆われる。乾燥に耐えるセダムやセイトウなどの植物が石材が剥がれたあとの朽ちたセメントの中に養分を見出し、鳥達は伱間に食べ物を運んで来て、イチイやエルダーやベリー類が側面から顔を出す。他の所では蔦がてっぺんまで覆ってしまう。(p236)。
ユーヴドール・プライス『ピクチャレスク試論』
今村隆男 『ピクチャレスクとイギリス近代』より引用
(強調筆者)
何もすることがないがゆえに
プライスは創作者として、何もすることがなくなってしまう。ただ、偶然と放置を待ちながら、自然エネルギーに身を任せることしかできない。この自然のエネルギーは、エレメントの構成云々の視覚美の話をとうに乗り越えてしまっている。デザイナーにできることと言えば、自然エネルギーによるピクチャレスク化を眺めることくらいである。ピクチャレスクとは、美しいものの廃墟化なのである。ピクチャレスクにどっぷり浸かったプライスは、視覚美の問題をとうとう乗り越えて、自然のエネルギーにすべてを任せることにしたのである。この意味において、いまや自然エネルギーこそ、デザイナーがコントロールできない《アクシデント》であり、この《アクシデント》に見舞われたデザイナーは、何も手を加えず、立ち尽くすことしかできない。こうして、プライスは、視覚美の問題を悠々と乗り越えてゆく、何もしないことによって。
都市のピクチャレスクを考える。
都市デザイナーに何ができるか
プライスとカレンの比較によって、カレンの『都市の景観』はもう一段階進めることができる。カレンのドラマティックな出来事はエレメントによって構成されたものに過ぎず、本当の意味での《アクシデント》足り得ないことを確認した。カレンは、素晴らしい眼を持った観察者であるが、創作者ではなかった。都市を参考にしながら、より修正された素晴らしい風景を描くことと、実際の都市を創ることはまったく異なる。それは、ギルピンとプライスの差異である。修正された理想的な都市のコピーを実現しようとした途端、オリジナルの都市がいかに素晴らしいかに気がついてしまうのだ。では、都市デザイナーに何ができるのか?
邪魔をしないということ
ここで創作者であるプライスの結論を思い出そう。それは、偶然と放置に身を任せることによって、自然のエネルギーが凡ゆるものをピクチャレスクへ変化させるのを眺めることであった。何もしないことによって自然エネルギーが自発的に行なうピクチャレスク化を邪魔しないことであった。もし、この理論を都市デザインに応用するならば、以下のようになる。偶然と放置に身を任せることによって、都市のエネルギーが凡ゆるものをピクチャレスクへ変化させること、これを眺めていることである。決してピクチャレスクな都市を創作してはならない。創作されたピクチャレスクな都市は、オリジナルの都市に劣ってしまうのだから。都市のエネルギーを見極めるならば、都市デザイナーにできることなど何もない。都市のピクチャレスク化に身を委ねるだけでよい。
都市エネルギーを見る眼
本当の意味での《アクシデント》をつくるためには、何もせず、都市に任せておけばよいのだ! 偶然と放置によって、都市エネルギーが都市を豊かにしてくれるに違いない。こうして、驚くべき結論が導かれる。「都市デザイナーは何もしなくてよい」、というものだ。しかしながら、これではあまりに楽観的で無責任である。ここで重要なのは、プライスがピクチャレスクという視覚の問題を推し進めてゆくなかで、単純な視覚的なコラージュに陥ることなく、自然のエネルギーを見出したという事実である 。当然、そうした自然エネルギーを見出すことによって、ピクチャレスクは終焉した。しかしながら、ピクチャレスクというフィルターを通すことによって、いままで誰も気が付かなかった、自然エネルギーが凡ゆるものをピクチャレスク化してゆく効果を発見することができた。プライスのこうした視点は、現在の環境問題に解決を見出すものとして光を浴びていることも着目すべきである。
プライスらは風景を自らの目で見つめ、それをどのように描出すべきなのかを探求した。彼らは、個別の事象を見つめることの意義に気づき、時間の流れの中での予測不可能な変化を自然の中に読み取り、その中での人々の日常に関心を持った。(p58)
今村隆男 『ピクチャレスクとイギリス近代』
都市もそうである。カレンの試みを視覚優位の試みだとして一蹴する訳にはいかない。また、視覚のコラージュに満足する訳にはいかない。それだけでは、都市のなかに潜むエネルギーのようなものを見失ってしまうだろう。都市デザイナーは、風景の視覚的コラージュなに頼ってドラマを作りだすのではなく、都市における視覚の問題を突き進めることによって、都市のドラマを作りだしている当のもの、その都市エネルギーを発見しなくてはならない。その都市エネルギーは、ジェイコブズが見つけ出すものに近いのかもしれないが、それだけに限らない。そして、そうした都市エネルギーを見つけ出したら、そのエネルギーを邪魔してはならない。偶然と放置を推奨したプライスに一言加えるならば、そうした都市エネルギーを放置するのではなく、後押しすればよい。視覚の多様性ではなくて、多様性を生み出している当のものを探し、そのエネルギーを膨らますこと。これによって、都市は自動的にピクチャレスク化してゆくだろう。当然、その途端、都市のピクチャレスクの美学は終焉を迎えるに違いないだろうが…。
都市のピクチャレスク。
そもそも、プライスがピクチャレスク論を打ち出した1974年、背景には政治的な事情があった。1973年にはロベスピエールの恐怖政治が始まっている。ブラウンのすべてを更地にする庭園は、凡ゆる区別を無くして水平化するものであり、社会階層を暴力的に「水平化」するフランス革命の象徴として批判の対象として扱われた。ブラウンらの囲い込みによる造園は、敷地内の古い住居を根こそぎにしてしまう。そこでで、プライスはピクチャレスクを打ち出し、想いをこめたのだ。凡ゆるものが水平化されて特性を奪われゆくとき、ピクチャレスクは必ず顔を出す。ピクチャレスクは凡ゆるものを表面に還元するが、それは多様性を擁護するためである。僕らの、錯綜を、多様を、粗さを、奪わないでくれ! こう見た時、ピクチャレスクの美学は視覚的であるというだけで批判されるべきではない。
都市のピクチャレスクを語るのではなく、都市のピクチャレスクを推し進めることによって都市をピクチャレスク足らしめている当のエネルギーを見極めること。そして、そのエネルギーを見極めたとき、そのエネルギーを膨らますこと。このとき、多様性が湧き上がるだろう。都市デザイナーは、そのエネルギーを抑えつけて邪魔することだけは許されない。許されるのは、そのエネルギーを加速させること、そして後押しすることくらいだろう。そう、めざすは都市のピクチャレスク化なのである。さて、メモはこのくらいにするとして、ゴードン・カレンの『都市の景観』は、主観的な目線で都市を考えるうえで重要になってくる一冊である。ぜひ、一読して欲しい。
