人間主義の建築:趣味の歴史をめぐる一考察 ジェフリー・スコット / 1914
建築に美術様式論を持ちこむこと。
ヴェルフリンの美術様式論が建築に与えた影響
当書は、英国に生まれの学者および詩人であり、建築史家でもあるという不思議な肩書きを持つジェフリー・スコットによって書かれた書物である。スコットは、美術史家であるハインリヒ・ヴェルフリンの美術様式論に影響を受け、美術様式論を建築の領野へ持ち込んだ点で重要である。美術様式論を建築にあてはめるとき、建築における美を、建築に外在する要因で評価するのではなく、建築に内在する要因で評価する、という姿勢が重要なってくる。たとえば、機能を誠実に表現しているからこの建築は美しい、構造を明確に表現しているからこの建築は美しい、といった外在する要因で建築を評価することは可能である。ただ、そうした外在する要因を排除して、建築を美学的観点からのみ批評すること、これがスコットの目的である。
美的価値の独立性を確保すること
建築を美学的観点からのみ批評すること。言い換えれば、建築作品を美学的に還元して語ること。これが困難なのは、美というのが、外在する要因によって語られるという誤謬がまかり通っているからである。分かりやすい例から考えよう。たとえば、ウィトルウィウスは《用・強・美(喜び)》を建築の三つの条件として挙げた。当然、使いやすく機能的な建物は評価されるべきだし、壊れにくく丈夫な建物は評価されるべきである。ただし、使いやすく壊れにくい建物だからといって、美しい(喜びに満ちている)とは言い切れない。すなわち、《美》は、《用》や《強》とはまったく異なる自律した領野であり、「独自の基準を持ち、みずから判断することを主張する
」(p20)のである。それゆえ、《美》という独立した観点で建築を語らなくてはならなず、《用》や《強》などの外在する要因によって《美》を語ることは誤謬である。これが、美学の観点からの分析するということである。
建築を芸術として論じる困難
美という自律した観点で建築を語ることは、建築を芸術作品として語ることである。使いやすい建物だからといって芸術作品だと言えないし、壊れにくい建物だからといって芸術作品だと言えない。芸術作品というのは、《用》や《強》ではなく、《美》に即して評価されなくてはならない。建築を、美学の観点から評価するということは、建築を芸術として研究するために必要不可欠なのである。こうした、美という自律した観点で建築を語ることこそ、美術様式論を建築に持ち込もうとするスコットの前提的な立場である。とはいえ、当時、この立場を徹底すること自体が困難であった。なぜなら、建築美を建築に外在する要因で評価することが一般的だったからである。たとえば、バロックは建築美とは無関係の外在的要因によって不当に貶められていた。そこで、スコットは外在的要因で建築美を語ることを誤謬だと指摘しながら、内在的要因で建築の美を語るための議論の足場づくりからはじめる。舞台となるのは、ルネサンスの建築である。
ルネサンスに押し付けられた誤謬を告発すること。
趣味としてのルネサンス建築
まず、スコットは、ルネサンスの建築を趣味の建築であると断言することからはじめる。「ルネサンスの建築はすぐれて、〈趣味〉の建築だったのだ。ルネサンスはある特定の建築様式を発達させたが、それはある種類の形に囲まれたかったからである
」(p46)。趣味(taste)は味覚と訳されることもある用語で、18世紀のヨーロッパにおいて美的評価に関わるものとして盛ん論じられた主題なのだが、スコットが主張したいのは、ルネサンスの建築は、民族的な理由、政治的な理由、社会変化は地理的事実などの外在的な要因では説明できず、趣味という内在的な要因でしか説明できないことである。ルネサンス建築は、とりわけ形への趣味に立脚しているから、建築美を研究するのに適している対象だと主張される。ちなみに、スコットにおけるルネサンスとは、15世紀のブルネレスキから19世紀初頭のゴシックリバイバルまでであり、バロックもルネサンスに含まれることに注意したい。
外在的な要因から美を評価する誤謬
スコットは、ルネサンスを舞台にしながら、建築の美を外在的な要因で評価するという誤謬を次々と指摘し、その誤謬を犯さないように注意喚起してゆく。当書の八割は、こうした誤謬の告発にあてられる。建築美学を打ち建てることは、幾つもの誤謬に囲まれた困難な仕事であり、それらの誤謬を排除しながら自身の居場所を限定することによって達成される。①建築美を文学的な象徴的観点から評価することをめざしてしまう、あるいは自然を信奉してピクチャレスク的観点から評価することをめざしてしまうロマン主義的誤謬。②建築美を構造的合理性といった建設技術の観点から評価することをめざしてしまう力学的誤謬。
③ラスキンやモリスに代表されるように、建築美を道徳的価値や社会的利益の観点から評価することをめざしてしまう倫理的誤謬。④ルネサンスからバロックまでの建築美の道筋を、成長・成熟・衰弱という進化の法則に即して評価することをめざしてしまう生物学的誤謬。⑤建築美を、オーダーやプロポーションなどのアカデミズムの理論に押し付けて評価することをめざしてしまうアカデミズム的誤謬。スコットは、これらの誤謬を一つひとつ点検してゆくことによって、建築美が外在的な要因で説明できないことを証明し、誤謬によって不当に貶められていたルネサンスの建築やバロック的な手法を救済してゆく。ここまでして初めて、本題の建築美を美学の観点のみで評価する土台が整えられる。
人間主義の建築。
人間と建築の関係
さて、外在的な要因で建築美を評価する様々な誤謬を告発し、建築美学の議論の土台をつくりあげたスコットは、いよいよ建築美への問題に向かう。ここで、提案されるのが人間主義(ヒューマニズム)の建築である。スコットは、自分自身を建築の言葉に転写して、建築を自分自身の言葉に転写する、この二重の転写を建築の人間主義と表現している。
これが建築の人間主義である。われわれの〔身体〕機能の似姿を具体的な形態へと投影しようとする傾向こそが、建築にとっては、創造的デザインの基盤である。逆に、具体的な形態のなかにそうした〔身体〕機能の似姿を見て取る傾向こそが、批評的な鑑賞の真の基盤である。(p225)。
ジェフリー・スコット『人間主義の建築』
これは、テオドール・リップスの感情移入の美学理論を建築に応用したもので、美学理論に親しい方には馴染みある考え方である。争点となるのは、具体的な形態と人間の身体のあいだにどのような関係を打ち建てるかである。たとえば、不安定な建築があると、人間は不安になる。いったいなぜ? 建築を自分自身の言葉に転写するからである。このような、建築の具体的な形態と人間の身体の関係が建築美の基盤となる。この感情移入説の利点は、建築の具体的な形態をそれ自体独立したものととらえ、また人間の身体をそれ自体独立したものとらえ、それら両者が独立したままに関係し合うとすることによって、建築に外在的な要因を完全に排除することを可能にする点である。すなわち、一人の人間と一つ建築だけですべてが完結し、それ以上の外在的要因が入る余地がなくなる。
美の基盤と様式の基盤
人間と建築を独立させ、その両者に関係性を持たそうとするアントロポモルフィスムの考え方の帰結はこうなる。「建築が精神の声明的な価値を伝達するためには、身体がそうであるように、有機的な現れを持たねばならない
」(p232)。とりわけ有機的な現れを持つための建築の具体的な形態として、線、空間、量塊が挙げられ、それらの個別の美的快を総合するものとして一貫性が挙げられる。「人間化された量塊や空間や線が美の基盤となるように、一貫性は様式の基盤となるのだ
」(p240)。以上がスコットの結論である。とりわけ、スコットの人間主義(ヒューマニズム)の建築という感情移入説は古く感じられるが、ドイツ美術様式論や空間という概念を建築界に紹介した功績は大きいし、建築美の自律性の探求は建設的な議論の前提である。ぜひ一読すべきだろう。
純粋性をめざした建築美学のその先の可能性。
純粋性を希求すること。
モダニズムと蒸留作業
当書が重要なのは、そのほとんどの頁が建築美を外在的な要因で評価するという誤謬の告発に費やされていることである。これは、建築美の自律性を切望する者による、そうでない要素を排除してゆくという蒸留作業にほかならない。この蒸留作業は、純粋性の希求というモダニズムの動きそのものであり、スコットが建築美の自律性を希求するのと同時期、コルビュジエは建築の純粋性を希求して、モダニズムの基礎を創設した。「建築は、それを単純かつ直接に知覚するならば、光と影とを通して提示される、空間と量塊と線との組み合わせである
」(p222)というスコットの言葉は、初期のコルビュジエの言説をみているようでさえある。なるほど、西洋において、建築作品の蒸留作業はフォルマリズムへ向かう運命にあるようだ。
人間と建築が切り離されること
さて、純粋性を希求してゆく蒸留作業を通じて、建築作品はあらゆる外在的な意味を剥ぎ取られて、ありのままの造形物体として浮上する。建築作品は、いかなる「理論」からも切り離されて、ただソコニアルだけの孤立した造形物の形態に堕ちてゆく。スコットはこう述べる。「私の主張は『理論』─すなわち建築的な善悪を純粋に知性に基づいて判断しようとする試み─そのものが我々の不幸の原因のひとつであるということである
」(p265)。重要なのは、あらゆる「理論」から建築を切り離してゆく蒸留作業において、人間までもが削ぎ落とされたことである。すなわち、建築作品は一度、人間から縁を切られ、単なる自律した形態としての客体として扱われ、その後、人間が、その形態を知覚する主体となるという物語が想定されている。
人間と建築を再接続すること
建築における、知覚されたとおりの空間、量塊、線。それらは現れ〔appearances〕である。われわれはそこからさらに、構築に関する事実や、歴史的ないし社会的事実など、その建物についての知覚されない事実を推測することもありうるだろう。しかし建築芸術は、事実の直接的な相にかかわるものであり、現れとしての事実にかかわるものなのである(p222)。
ジェフリー・スコット『人間主義の建築』
建築は、空間、量塊、線の単なる現れとして人間に知覚される。このとき、すでに人間と建築には距離がある。というのは、人間と建築が接触することは想定されていないからである。しかしながら、幾つもの誤謬の告発という蒸留作業によって「理論」が徹底的に排除された結果、「理論」を介して建築を判断することは禁じられている。そこで、建築は直接に知覚されなくてはならなくなる。外在的な「理論」を媒介とすることは許されず、無媒介に建築と人間が結ばれる必要がある。そこで、独立した人間と独立した建築を無媒介に結びつけるものとして、リップスの感情移入説が持ち出される。なるほど、人間の身体と建築の形態を類比することによって、外在的な理論なしで人間と建築を直接的に再接続することが可能になる。
建築の他者性は美に関与するか。
感情移入説と独我論の批判
ところで、リップスの感情移入説を他者論に応用したのがフッサールである。現象学的還元を徹底したフッサールは、自我にとって他者がどう現われるかという問題を考える際、リップスの感情移入説を導入して批判されたことで知られている。フッサールにおいて、自我と他者を類比することによって、外在的な理論なし自我と他者が結ばれた。しかしながら、自我から出発して他者を語ること、その過程において他者は自我のなかで構成されてしまう。いわば、他我になってしまう。その独我的な態度に対して、他者は構成されるものではないとサルトルが批判したことは有名であり、また、その後、レヴィナスは他者から出発して自我を語ることを提案して存在論そのものを批判したことも有名である。
建築における他者性
ここで哲学を精査することはしないが、フッサールに後続した哲学者の批判から、感情移入説が独我論に陥る危険性が指摘されたことは重要視しておきたい。スコットの建築論に置き換えるならば、人間と建築の関係性を語る際、建築を人間に引き寄せて考え過ぎることは、独我論に陥る危険があるということである。「建築とは世界の人間化されたパターンであり、われわれの生活における鮮明のイメージが反映された形態の図式である。これは真に美的なものである
」(p254)。果たして、人間化された世界が建築美の基盤であるとは、あまりに独我的ではないだろうか? 建築を人間に引き寄せて考え過ぎてはいないだろうか? 建築は構成されるものなのだろうか? 建築における他者性は美に関与しないのだろうか? たとえば、非人間的な美学を打ち建てることは可能か…?
非人間主義の美学。
人間と建築を再接続すること
スコットはこう語る。「人間主義には二つの敵がいる。ひとつは混沌であり、もうひとつは非人間的秩序である
」(p258)。逆に言えば、非人間主義の美学を打ち建てるとき、混沌であり、非人間的秩序を持った建築の美学を語ればよい。ただし、注意したいのは、「理論」という外在的要因を介して建築を判断することは許されず、建築の内在的要因だけ建築美を評価しなくてはならないということである。これが、美学を語るうえでの大前提になる。もっと言えば、人間と建築を便宜的に切り離しながら、そのうえで、人間主義という独我論に陥ることなく、人間と建築を再接続する仕方を考えなくてはならない。そんなことは可能なのか? 非人間主義の美学を描くことはできるだろうか? ここでは、結論を急がず、非人間主義の美学なるものを簡単に素描して終わりたい。
非人間主義としての石上純也の建築
「非人間主義の美学」を考えるうえで考えてみたいのは、石上純也の建築作品である。石上の建築は、何らかの秩序に頼って混沌と闘うこともせず、何らかの人間的な尺度を用いて非人間的秩序と闘うこともしない。古代でもルネサンスとも違う手法で成立している。というより、むしろ、秩序を否定し、人間的な尺度を否定しているように感じられる。石上は、『建築のあたらしい大きさ』という書物において、人工環境としての建築と自然環境の区別を認めたうえで、人工環境としての建築に様々なスケールを含めることを提案する。「いままで建築が備えることができなかった、できる限り多くのスケールを建築のなかに含めてゆくことはできないだろうか
」(p3)。すなわち、人間主義的な人工環境としての建築という狭い概念のなかに、人間主義とは異なる非人間主義的なスケールを持ち込んでゆくことが提案されている。これは、明らかに非人間主義的な傾向を示している。
非人間主義の建築の美学
石上の建築は、非人間主義的な傾向にある。そこでは、秩序が失われる方向にスタディは進められ、人間的な尺度を無視したようなスケールが提案される。ランダムかつ曖昧、とても大きく、とても長く、とても薄い。そこには、スコットのいうような人間主義的な美の基盤は成立せず、感情移入というのも適切ではないだろう。そこには人間主義のとっかかりすら見出せないからである。ここに、新しい建築美があると思えてならない。これは仮説に過ぎないが、人間がつくった建築というものが、まったく人間を感じさせないとき、その非人間主義によって産み出される建築美があるのではないだろうか?
美的快の源泉
人間の創作物としての建築が、もはや人間がつくったと感じられないほど非人間的に感じられるとき、美的快が生じる。この理由を説明するうえで、フロイトの『機知』の考え方が参考になるかもしれない。たとえば、本を読もうとして本を開いたとき、中身が白紙だったことを考えて欲しい。このとき、本を読もうと備えていた心的エネルギーが浮き、そのエネルギーの余分が美的快につながるという理論である。同様に、人工物としての建築を知覚するとき、人々は心的エネルギーの消費を覚悟して備えているが、それがあまりに非人工的であったとき、その備えていた分のエネルギーが余って美的快に結びつく。非人間主義の美学を無理やり説明すると、そんなところだろう。ともかく、スコットが述べるような、空間と量塊と線、あるいは一貫性とは異なる美学があるはずで、それを探求することが重要になるだろう。
さて、メモはこれくらいにしておくが、ジェフリー・スコットの『人間主義の建築:趣味の歴史をめぐる一考察』は、建築美を議論する土台をつくったという点で名著である。議論をするうえでの前提知識になるので、美学に興味がある方はぜひ一度は読んでおきたい。
