明日の田園都市 エベネザー・ハワード / 1902
実現可能なユートピアの提案。
エベネザー・ハワードは1898年に『明日:真の改革に向けた平和的な道』という書物を出版する。それが多くの反響を呼んだこともあり、1902年に幾つかの改訂を行なった『明日の田園都市』の出版に至る。一般的によく知られているのは1902年版であり、当書はその翻訳である。当書の特徴は、物理的な都市の提案は完結に済まされ、そのほとんどのページが収支計算や事業の運営計画にあてられていることである。その経済計算が正確かどうかは棚にあげるとしても、こうした精緻な計算が並べられると、田園都市の実現が可能に感じてくる。こんなにもイケル気がするユートピアがいままであっただろうか…? 大きな権力に頼ることなく、民衆がほんの少しだけ本気を出せば、いますぐにでも実現しそうなユートピア。ここにハワードの田園都市の魅力がある。もう少し具体的に見てみよう。
田園都市の背景と計画概要。
田園都市の生まれた背景
ハワードが田園都市を構想をした19世紀末のイギリスでは、他国に先駆けて達成された産業革命の影響を受け、大量の労働者が都市へと押し寄せて、大都市の過密が進行していた。大都市の過密は劣悪な生活環境が生じさせ、労働者階級に大きな被害を与えることになる。上流・中流階級は、過密化の進む都市から郊外へと避難することができたが、労働者階級は、仕事の需要に即座に応える必要があったため、環境の劣悪な都心に居続けざるを得ず、工場の近傍にスラム街を形成していった。当然、こうした環境を改善する動きはあったものの、抜本的な考え方が待たれていたのは間違いない。そんな背景のなかで、『明日の田園都市』は新しいビジョンを鮮やかに提示し、脚光を浴びた。
田園と都市の結婚
田園都市の骨子は、田園(Country)と都市(Town)の結婚である。美しい自然に囲まれているが社会的機会の少ない田園と、劣悪な環境であるが社会的な機械に溢れている都市、両者を組み合わせることで良いところを総取りすることが可能になる。田園と都市、双方のメリットを享受できる「田園都市」が誕生したならば、それは魅力に溢れたものとなり、磁石に吸い寄せられるように人々は集まってくるに違いない、とハワードは考えた。有名な『3つの磁石』のイラストは、田園都市の魅力を表現している。
具体的な計画の概要
具体的な計画概要としては、1000エーカー(4k㎡)の同心円状の市街地と、これを取り囲む5000エーカー(20k㎡)の農地が取り囲む構成であり、人口は、市街地に30000人、農地に2000人の合計32000人が住む想定である。市街地の中央には庭園があり、それを囲むように市役所や図書館は病院という公共施設が配置され、その外側に中央公園、さらに外側に「水晶宮」と呼ばれるガラスのアーケードががぐるりと周回する。ガラスのアーケードである水晶宮の外側には住宅が立ち並び、住宅エリアを「グランドアベニュー」という幅員140m道路が走り抜け、グランドアベニューのなかに学校や公園や遊び場がおかれる。
市街地の外周には工場や倉庫、石炭置き場、材木置き場などが並べられ、それらは環状鉄道に面しているので輸送に有利である。この環状鉄道は市街地の最外周をぐるりと囲むと同時に、支線によってメインの鉄道本線にも結ばれている。注意したいのは、こうした計画が確固たる物理的な形態として提案されているのではなく、単なる図式に過ぎないということである。「この説明は単に、こんなものだろうという程度のもので、実際にはこれとはかなりちがってくるはずだ
」(p80)とハワードは注意喚起している。都市の形態ではなくダイアグラムを考えたことは、とても新鮮であった。
田園都市の特徴。
ハワードの田園都市の特徴を、以下の3つにまとめてみよう。①人口の設定によって都市を規制すること、②都市の利益を都市に還元すること、③コミュ二ティ主導の都市計画であること、である。
①人口の設定によって都市を規制すること
第一に、都市の人口を3万2000人という人口単位で区切ったことはハワードの慧眼である。3万2000人という人口単位が適切であるかは検討の余地があるものの、面積からではなく、人口から都市を規定してゆくことによって、ヒューマンスケールを逸脱することはない都市が可能になる。ハワードは、もし田園都市の人口が3万2000人を超えるならば、近傍に田園都市をもう一つつくり、それらを高速交通で繋げるべきだと述べ、繋げられた都市全体に「社会都市」と名前を付けている。このようなクラスター状の都市の成長モデルは、後世の都市計画に大きな影響を与えている。
②都市の利益を都市に還元すること
第二に、田園都市において、都市の利益が都市に還元されることは重要である。ハワードは、田園都市内部からの利益のみで都市を運営可能できるのかを、緻密な計算によって証明してみせた。田園都市は、単なるユートピアの提案ではなく、事業スキームとして成立するというのだ。そのうえ、驚くべきことに、田園都市の建設時における資金調達の方法までもが明記されている。まず、田園都市を建設するための土地は、担保付債権の発行によって調達され、土地全体が信託財産して扱われる。田園都市の収入は、市街地と農村に入居する住民からの「税・地代」であるとされ、この収入分から債権の利息と元本返済用積立金を差し引いた金額によって、田園都市が維持管理されてゆくという還元システムが提案される。以下の引用がわかりやすい。
この計画の重要な特徴の一つは、すべての地代(これは土地の時価に基づく)は信託管理人に支払われ、かれらはそこから(債券の)金利と元本返済用積立金を支払って、残金をその新しい自治体の中央評議会にわたす。その金を使って委員会は、必要とされる公共施設すべての建設と維持管理を行う─道路、学校、公園その他だ。(p79)。
エベネザー・ハワード『明日の田園都市』
(強調筆者)
ハワードの計算は、3万2000人の移住が完了したことを前提として行われているとはいえ、その移住のプロセスを踏まえても田園都市にはメリットがあることが強く主張される。ここで重要なのは、田園都市の収入の剰余分が、田園都市へと還元されるという構造である。街路や道路、環状鉄道や橋梁、学校や市役所、図書館や美術館、等々の建設・維持管理が経営的に可能かが検証される。「わたしが証明しているのは、税・地代が地主地代をまかなうのに十分というだけではなく、さらには自治体としての活動領域を大いに拡大するのにも十分
」(p135)なのである。
こうした田園都市の還元システムは、田園都市に住まう人々が払った「税・地代」が、目に見えるかたちで自らの生活をよくしてゆくことに使われてゆくため、そこに住まう人々は心よく「税・地代」を納めることができる。なるほど、大規模な都市ではみずからと無関係なところに税・地代が使われてゆくが、3万2000人程度の都市では「税・地代の使われ方」が透明なまま可視化される。都市の規模と「税・地代の使われ方」の透明性、両者の関係性を考えるうえでもハワードの考え方は参考になるだろう。払った分が都市に還元されるならば、人々は税金を喜んで納めるのだから。
③コミュ二ティ主導の都市計画であること
第三に、コミュ二ティ主導の都市計画であることは重要な特徴である。田園都市の運営員会は、「中央評議会」と「各種の部」に分割され、「各種の部」は「公共管理部門」「エンジニアリング部門」「社会目的部門」の3つに別れている。そして「税・地代」を納めている者は、どこかしらの部に配属される。ハワードは、この仕組みを「準公共事業」だと述べ、さらに細部を詰めてゆく。この仕組みは、社会主義者と個人主義者のあいだであり、厳密な立法に縛られるわけでもなく、個人の好き勝手にできるわけでもなく、人々の期待に答えながらある程度自由に振る舞うような仕組みなのである。こうしたコミュ二ティ主導の都市計画はを19世紀末の時点で提案していることは驚きである。
その他の仕組み
ハワードの田園都市の特徴を3つに整理してみたが、その他にも、学ぶべき多くの仕掛けが散りばめられている。たとえば、農民達がつくった農産物は、すぐ近くにある市街地に供給する「地産地消」が提案されているし、都市の廃棄物は近接する農地に肥料として使われる「リサイクル」が提案されている。「水晶宮」は雨が降ったときにも活用できるため、どんな天候でも人々が集まるようになる等々…。当然、ハワードの提案は徐々に古くなっているし、自動車にも言及していないという欠点もある。ただ、都市計画という言葉もない時代に、明確な経営システムと都市のイメージを提案したハワードの功績は大きく、後世に与えた影響も凄まじい。ぜひ手にとって欲しい一冊である。
田園都市の具体化とその影響
都市のダイアグラムの断片から。
発明家としてのハワード
ハワードの田園都市の影響をみてゆきたいが、その前に、なぜハワードの提案がこんなにも影響力を持ったかを考えておきたい。結論を先に述べると、ハワードが提示したのが千切れたダイアグラムだったからである。そもそも、ハワードは夢想家ではなく、ジョージ・スチーブンソンに憧れた発明家であり、実業学校で速記を学んだのち、シカゴにて速記の技術を活かして就職した人物である。晩年には、速記用タイプライターの発明に夢中になったことでも知られている。この経歴から分かるように、ハワードにとっての田園都市は「発明」なのである。発明は、具体的に現実に適応されなくては意味がないという点で夢想と異なる。夢想家は、単に理念や法則を追求していればよいが、発明家は、それが機能することを実証しなくてはならない。
戦略としてのダイアグラム
いくら理念や法則に忠実で美しかろうが、使い物にならない発明品に意味はない。従来の理想都市は、理念や法則の追求であり、それらが都市の具体的な形態に直接的に結びついていた。しかしながら、発明家であるハワードの提案はより柔軟であった。なぜなら、提案には「都市のダイアグラム」だけが描かれ、具体的な形態や法則を押し付けることをしなかったからである。むしろ、具体的な形態や法則を押し付けることは、発明を現実で実証するうえで邪魔になるとすら考えたのだろう。当然、実験は失敗するかもしれない。ただ、失敗は成功への道である。発明は最初から完成品をつくる作業ではなく、徐々に完成へと向かうものである。
成功した発明や発見というのは、ふつうはゆっくりと成長するもので、そこに新しい要素が追加され、古い要素が除かれていくのだ。まず発明家の頭の中で、次に外に見える形で。そうしてついには、本当に正しい要素だけが集まり、それ以外はないようになる(p182)。
エベネザー・ハワード『明日の田園都市』
(強調筆者)
従来の理想都市が失敗を考慮に入れなかったのに対して、ハワードは失敗を恐れなかった。完成形をいきなり創ろうとするのではなく、最終的に正しいものになればよいと割り切っていた。ここに、ハワードの計画の魅力がある。都市や建築を変えるのは、都市計画家や建築家ではなく、いつもアウトサイダーだということを忘れてはならない。なぜなら、都市計画家や建築家は、いつも形態の問題に縛られてしまうからである。ハワードは発明家であったからこそ、都市の形態にこだわることもなく、都市のダイアグラムのみを描くことに専念できた。しかも、ハワードは1902年版に図版を掲載するにあたって、「ダイアグラムに過ぎない」と丁寧に付け加えたことは決定的である。都市の形態や平面は確固たるものではなく、敷地次第で柔軟に姿を変えると宣言されたのである。
千切れたダイアグラム
ハワードは、発明品を実際に実現するにあたり、戦略的に動き続けることを忘れなかった。1898年の『明日:真の改革に向けた平和的な道』を改訂して、1902年版に『明日の田園都市』を出版する際に、図版に「ダイアグラムに過ぎない」と付け加えるだけではなく、幾つかの図版を削除したり、千切ったりしている。たとえば、以下の一番有名な図である。この図は、正確な六角形で従来の理想都市の様相を呈しているが、1902年版において削除され、その一部分のみがクローズアップされた図版に置き換えられいる。ハワードが、六角形表現されたユートピア的な図版を千切ったこと、これは英断であった。なぜなら、千切られた部分は、人々の想像力によって補完されるからである。いままで、千切られたユートピアがあっただろうか?
想像の余白
千切られたユートピアは、単なるユートピアよりも想像力を掻き立てる。その千切られた部分は各々の想像力によって賄われる。千切られたユートピアには人々を巻き込む力があるのだ。いずれにせよ、発明家であるハワードが都市の形態に縛られることなく、都市のダイアグラムのみを提示し、さらにそのダイアグラムすら千切ったことが、人々の想像力を掻き立てたのは間違いないだろう。ハワードの計画が後世に大きな影響を与えたのは、その経営的な側面だけではなく、抽象と具体、現実と仮想、を往復可能にするグラフィカルなダイアグラムの表現方法にもあるのだろう。さて、そろそろ田園都市がどのように具体化されていったかをみてゆこう。田園都市の実現は『レッチワース』と『ウェルウィン』において具体化される。
第一の田園都市『レッチワース』。
田園都市実現に向けて
第一の田園都市の実現は、ロンドンから北西に55mほど離れた場所にある『レッチワース』であり、1903年に敷地が購入されている。約15.46k㎡とハワードの理想よりも小さい敷地であり、ジョージ・キャドベリーとウィリアム・リーバーという慈善的資本家が財政面を支えるかたちで田園都市の実現に走り出す。設計競技の結果、選定されたのはレイモンド・アンウィンとバリー・パーカーという二人の建築家である。パーカーはアンウィンの義理の弟であり、二人はのちに『ハムステッド田園郊外』を設計することになる。パーカーはアンウィンの仕事は、ハワードの「都市のダイアグラム」に具体的な形態を与えてゆくことである。
レイモンド・アンウィンの意訳
アンウィンは、ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスに影響を受けた人物であり、ハワードの「都市のダイアグラム」に対して、地元に特徴的な煉瓦、化粧漆喰、切妻、瓦屋根といったヴァナキュラー建築のイメージを重ねてゆくことを考えた。それは、モリスが『ユートピアだより』で絶賛したような中世の村や町のイメージであり、イギリスのピクチャレスク的な伝統を引き継いだものでもある。ハワードのダイアグラムは直線状の道路であるが、アンウィンは河や丘にそって緩やかに曲がる道路となり、水晶宮という工業技術の象徴は伝統的な商店の街並みへと意訳されている。
レッチワースのイメージ
『レッチワース』はハワードのダイアグラムとアンウィンの思想が混ざり合うことによって、新しい伝統とも言えるような魅力的な風景をつくり出した。『レッチワース』の魅力的な風景は、ダイアグラムだけでは伝達しきれない具体的なイメージを人々に提供して、後世に大きな影響を与えることになる。田園都市にどこかノスタルジックな魅惑が漂っているのは、アンウィンの功績なのである。その後、『レッチワース』のたどった資金面や利益の問題などの様々な苦難を体験することになる。ここで説明する余裕はないが、この『レッチワース』はいまなお様々な議論を提供してくれるだろう。
第二の田園都市『ウェリン・ガーデン・シティ』。
ウェリン・ガーデン・シティの特徴
第二の田園都市の実現は『ウェリン・ガーデン・シティ』である。1920年、ハワードは『レッチワース』に近いウェリンの土地に新しい田園都市を実現しようとする。ロンドンから約37kmほど離れた場所にあり、東西南北に交差する鉄道によって四等分された9.6k㎡敷地である。選定された建築家はルイ・ドゥ・ソアソンという人物。敷地の南西部にはタウンセンターが整備され、住宅は均整のとれたジョージア朝様式のものが採用されている。『レッチワース』が中世の街への憧憬という建築家の理想が混入しているに比べて、『ウェリン・ガーデン・シティ』はハワードの田園都市の忠実な際限となっている点で単調だという指摘が多いが、デザインが統一され、緑も多く、バランスがよい都市となっている。
ウェリン・ガーデン・シティの未来
『ウェリン・ガーデン・シティ』が重要なのは、やがてロンドン周辺にニュータウンが計画されてゆく先駆けとなった点である。1920年にハワードの主導ではじまった『ウェリン・ガーデン・シティ』だが、1948年にはニュータウン法に基づく指定を受けて「ニュータウン開発公社」が管理することになる。ニュータウン法は、1940年の「バーロウ委員会報告」とアーバンクロンビーの1944年の「大ロンドン計画」を背景にしながら、1946年に制定されたものである。第2次世界大戦による住宅不足と大都市の混乱によって、新しい都市を建設する必要から求められたもので、ハワードの田園都市構想を参考にしながら、政府主導でニュータウンの開発を進めてゆくことが規定された。要するに、ニュータウン法はハワードの田園都市構想を国家単位で進めようとする試みである。
ニュータウンへ
ニュータウン法は、ハワードの田園都市構想を下敷きにしているのだが、政府によって任命された「ニュータウン開発公社」がニュータウンの管理を行なうことになる。それゆえ、『ウェリン・ガーデン・シティ』において田園都市の思想の根幹である、住民が自主的に管理するという協同体制は放棄されてしまった。さらに、1947年に都市・田園計画法が立法されると、政府がイギリス全土の開発利益を国有化することを宣言される。『ウェリン・ガーデン・シティ』はこうした政府主導の開発に大きな影響を受けたという点において、ニュータウンの走りでもある。他方で、『レッチワース』では、住民達が政府主導の開発と徹底的に戦う姿勢を見せることになる。『レッチワース』と『ウェリン・ガーデン・シティ』のたどった道を比較すると面白いだろう。
さて、メモはこのくらいにするが、ハワードのの『明日の田園都市』の理論は、都心から離れた処女地に一つの都市を実現するという際に大きな指標となる。住民主導の都市計画というのを考えるうえでも必ず読まれたい一冊である。ぜひ手にとっていただきたい。
