ジェイコブズ対モーゼス:ニューヨーク都市計画をめぐる闘い アンソニー・フリント / 2009
対照的なジェイコブズとモーゼス。
ジェイン・ジェイコブズ登場
当書は、アンソニー・フリントが2009年に書いた書物の邦訳であり、1940-70年頃のニューヨークの都市計画を巡ってジェイン・ジェイコブズとロバート・モーゼスが繰り広げた奮闘のドキュメントである。絶大な権力を武器にしながらトップダウンで都市計画を進めてゆくモーゼスに対して、ジャーナリストを出自とする田舎主婦であるジェイン・ジェイコブズが立ち向かってゆくという構成になっている。まず、主役であるジェイコブズの幼少期やジャーナリスト時代の生活が語られたのち、1956年の4月にハーバード大学で行われたデザイン総会において、スラムを更地にして新しく都市をつくりあげるモダニズムや近代都市計画的な方法を批判した姿が描かれる。ジェイコブズはこう叫ぶ。「都市はそれ自体で貴重な価値を持っているのです。なのに力ずくでそれを打ち砕き、不適当な郊外のまがいものに変えてしまうことは意味がないのです
」(p53)。
ロバート・モーゼス登場
次に、当書の悪役であるモーゼスが登場する。モーゼスはジェイコブズとは異なる裕福な家庭に生まれたエリートで、イエール大学、オックスフォード大学ウォドム・カレッジの留学、コロンビア大学での政治学の博士号と申し分ない学歴を持つ人物である。1918年にニューヨーク州知事であるアル・スミスから実力を買われると、その政治的権力を用いながら、公園、橋、高速道路、インフラなど大規模開発を次々と実現してゆく。「モーゼスは権力の頂点にいた。政府内の地位は事実上聖域であり誰も手が出せないうえに、政敵の裏をかいて打ちのめす老練さでモーゼスは無敵の人となっていた
」(p100)。この無敵な人に対して、ジェイコブズが反旗を翻してゆくのだ。
ニューヨーク都市計画をめぐる3つの闘争。
3つの闘争
当書の物語は、ジェイコブズとモーゼスの3つの闘いが描かれる。①ワシントン・スクエア・パークを通る高速道路の建設、②再開発のためグリニッジ・ビレッジの大部分を平らにする計画、③マンハッタン南部を通る巨大な高速道路(ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイ)の建設、モーゼスによるトップダウン式の3つの計画を阻止するためにジェイコブズは奔走する。いずれの闘いもジェイコブスが勝利することになるのだが、ジェイコブズがどのような戦略を取ったかが細かく描写されている点が、当書の魅力である。
ジェイコブズの戦略
草の根を組織化して動員する巻き込み力、政治家を味方につける抜け目なさ、子供を器用して感情に訴える分かりやすい方法、不正に目を光らせる探偵のような観察眼など…。ジェイコブスの戦略と行動力には感服せざるを得ない。また、ジェイコブスの名著である『アメリカ大都市の死と生』がどのような背景で生まれたのか、ボトムアップ式の都市計画が何を求めているのか、などを鮮やかに提示してくれる。さらに、ジェイコブスが逮捕される描写などは臨場感あふれていて、読み物として楽しい仕上がりになっている。ぜひ一読をお勧めする。また、当書はジェイコブスに肩入れし過ぎていることもあるので、『評伝 ロバート・モーゼス』を併せて読むことをお勧めしたい。
都市における敵とは誰か?
都市には敵が必要である。
当書が興味深いのは、モーゼスの3つの計画案がジェイコブスによって阻止されたゆえに、実際の都市は何一つ変化していないということである。むしろ、都市は何一つ変化していないにもかかわらず、モーゼスの大胆な計画が提示されることによって、市民同士に横の繋がりが発生していることが重要である。果たして。モーゼスのトップダウン的な都市計画無くして市民はここまで団結することができたのだろうか? 我々はこう考えるべきではないか。都市という構造が意識されるためには、都市という構造の外部の敵が必要なのだ、と。強大な敵との闘いのなかで、都市というものは誕生するのではないだろうか?
都市における敵と味方。
当然、「ここまで馬鹿げた人生をわたしに強いる政府ってなんなのかしら?
」(p265)というジェイコブズの言葉を聴くならば、モーゼスの暴力を肯定することは出来ない。しかしながら、ジェイコブズによってモーゼスという敵が殺害されたあと世界はどうなっただろうか? ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』がトップダウン的な都市計画を否定した結果、市民に対する強大な敵の誕生は禁忌となった。そうして、敵のいない都市計画が主張される。つまり、味方しかいない理想の都市計画である。ただ、こうした味方というのは強大な敵との死線をくぐり抜けたものではないから、本来の意味の味方ではなく、ただの隣人に過ぎない。 隣人の集まりを都市と呼べるのだろうか? そもそも、人間は敵としてのスケープゴートなくして都市を形成することができるのだろうか?
敵のいない都市計画の行方。
従来の西洋的な都市は、敵を排除するため城壁をぐるりと囲み敵の入場を制限していたのであり、都市は常に敵との関係のなかで現われてきた。その後、都市を囲む城壁が失われると、モーゼスさながらのトップダウン的都市計画が敵として現われる。そして、モーゼスが殺害されると敵はいなくなり、敵は資本主義システムのなかに回収される。モーゼ(ス)の殺害はトラウマとなり、潜伏期を挟んで抑圧が生じ、罪意識の沈殿とともに、集団のシステムが誕生する。都市における資本主義システムの行方はコールハースの『錯乱のニューヨーク』が示してくれる。そこには明確で強大な敵はなく、資本主義システムに絡め取られ、隣人より少しだけ稼ごうとする欲動に身を任せる人間達が集まる。そこに味方はいるのだろうか?
隣人が小さな敵になる可能性のなかで。
モーゼスの殺害も忘れ去られ、資本主義システムに絡め取られた我々の時代。この時代を強いてゆえば、隣人すべてが小さな敵になる可能性を持った時代だと言えるだろう。「not in my backyard(わたしの裏庭にはつくらせない)」と市民の一人一人が叫ぶとき、まるで小さなモーゼスが叫んでいるように見える。モーゼスのような強大な敵はもういない。その代わり、あらゆる隣人が小さなモーゼスに変身する可能性を持つ。ジェイコブズは、隣人が即座にして小さなモーゼスへと変身する世界を想像しただろうか? 果たして、それを都市と呼べるのだろうか? 大きなモーゼスは殺害された、その代わり、小さなモーゼスが一人ひとりの胸のうちに住まっている。まるで脳中人のように。罪意識に耐えきれなくなると、小さなモーゼスは暴れ出す。それを止める術はあるのか?
都市計画における正義と悪。
当書は、ロバート・モーゼスという悪に対して、ジェイン・ジェイコブスという正義のヒーローが立ち向かってゆくという分かりやすい図式になっている。正義によって悪は殺される。まるでアメリカのヒーロー映画のようだ。しかし、いまや悪はいない。ジェイコブズが悪を殺して封印したからだ。その結果、悪は失われたかのように見えた。ただ、悪は外面に現われなくなったに過ぎない。 誰もが内面に小さなモーゼスになる可能性を秘めて都市を歩いているのだ。それは、あるキッカケで即座に表出する。これでもジェイコブスは正義と言えるだろうか? めまいのすることばが、世界の底からやってきて、すべての秩序を台なしにするかもしれない。いまやジョーカーは、あなたのすぐ横を歩いている。もしジョーカーが暴れ出したら、我々は、止めることができるだろうか…?
さて、メモはこれくらいにしておくが、ニューヨーク都市計画をめぐるジェイコブズとモーゼスの闘いは、都市計画の本質や問題を語るうえで格好の題材となるだろう。読み物としてとても面白いので、ぜひ一度は読んでおきたい。また、当書の著者である渡邉泰彦の『評伝ロバート・モーゼス:世界都市ニューヨークの創造主』も併せて読むことを強くお勧めする。
