評伝ロバート・モーゼス:世界都市ニューヨークの創造主 渡邉泰彦 / 2018
ロバート・モーゼスの再評価として。
当書は渡邉泰彦が書いたロバート・モーゼスを再評価する評伝である。アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス』という著作が描いたように、絶大な権力を武器にしながらトップダウンで都市計画を進めてゆく悪役としてのモーゼスに対して、ジャーナリストを出自とする田舎主婦である正義のヒーローとしてのジェイン・ジェイコブズというのが、一般的に知られている構図である。とはいえ、悪役モーゼスは本当に悪役なのだろうか? 著者は、「今日のまちづくりにおいて、世論があまりにもジェイコブズびいきになりすぎているのではないか
」(p290)と注意喚起して、いままで光を当てられなかったモーゼスの功績を再評価をしてゆく。
マスタービルダーの功績。
モーゼスはあまり語られることはないが、その功績は計り知れない。「十七の州立公園、六五八カ所の大小さまな運動場、遊び場、述べ六三七マイルに及ぶ高速道路、一〇カ所の巨大公営プール、そしてさらには一三の大規模橋梁を築いたモーゼスは、住宅供給にも極めて熱心で、都心のあちこちに散らばるスラム街にブルドーザーを入れ更地にした土地の総面積は三〇〇エーカーにも登り、そこに二万八四〇〇戸を収容する高層住宅の数々を建設した」(p14)。それだけではなく、リンカーンセンター、国連ビル、シェースタジアム、ジョーンズ・ビーチ、セントラルパーク動物園等々なども手がけている。モーゼスはニューヨークの都市インフラのほとんどを手がけたのであり、まさにニューヨークの創造主なのだ。モーゼスから学ぶべきは、巨大なインフラをいかに実現するかという方法である。一体、ニューヨークという大都市を一人の人間がどうやって変貌させたのか?
巨大のインフラを実現するためのしたたかな方法。
腐敗に立ち向かうという正義
まず興味深いのは、モーゼスの出自である。モーゼスは1905年にイェール大学に入学した後、オックスフォード大学のウォドム・カレッジの修士課程に入学、その後の博士論文「大英帝国における公務員制度」をコロンビア大学に提出して1913年に博士号を取得する。モーゼスは、都市デザイナーではなく、政治学が専門であり、行政改革のあるべき姿を追い求めていた。モーゼスがニューヨーク市役所に設けられた調査局の職員としてキャリアを始めた1913年頃は、タマニーホールによって自治体政治は腐敗しきっていた。そんな背景において、「もっと世界をよくしたい」と正義感に燃えるモーゼスの姿は想像に難くないし、その姿を無作為に否定することは許されないだろう。
世界をよくするためには権力が必要
政治の腐敗に立ち向かうモーゼスの正義は即座に否定される。腐敗したタマニーホールの政治家がモーゼスを批判した結果、モーゼスは失業して貧困に喘ぐことになる。腐敗に対抗するには権力が必要だとモーゼスは知る。貧困に喘ぐモーゼスに救いの手を伸ばすのが州知事に選ばれたアル・スミスである。アル・スミスは極度の貧困のなかで育った人物である。二人は手を組みながら、様々な問題を解決してゆく。重要なのは、モーゼスが夢を描くだけではなく、夢を実現してゆくために、機転の機転が利いた方法を数多く提案していることである。たとえば、若年囚人の社会復帰のために州立の農学校を社会復帰施設へ転用すること。荒廃した空き地を見つけ出して、市民の娯楽の場としての州立公園に変貌させること。その際、富豪から未使用地の土地の寄付を受けるなどのしたたかな戦略…。
トライボロー・ブリッジ
モーゼスの仕事のなかで最も参考になるのは1936年の7月に開通したトライボロー・ブリッジにおける資金調達の方法である。トライボローは、マンハッタン、ブロンクス、クイーンズの3つの行政地区を大高架橋で結びつける計画である。「トライボローは、単なる橋ではないし、ましてや交差路でもありません。市の三区を結び、隣接する群や州の境界へと延びてゆく交通の大動脈なのです
」(p105)。世界恐慌に見舞われるなかで、様々な工夫を施しながら実現されたトライボロー・ブリッジは有料橋であり、そこを通過する車両から通行料金をとることによって、事業の債券を返済してゆくという仕組みになっている。しかも、荒廃したランドールズ島とワーズ島を埋め立て、野球場をはじめとする娯楽施設で資金を回収する見事なシステムが構築されている。こうした方法に学ぶべきことは多いだろう。
モーゼスから学ぶこと。
ジェイコブズによる批判、そしてロバート・カロの『パワー・ブローカー』の告発よって、完全な悪役が板についたモーゼスであるが、モーゼスの方法には学ぶべきところも多い。確かに、絶大な権力によって、次々とトップダウンで都市を開発してゆく姿は批判されるべきかもしれない。しかしながら、都市を整備するためには、資金集めの戦略と強いリーダーシップが必要なことも確かである。船頭多くして船山に登る。また、モーゼスの始まりが、政治の腐敗に立ち向かう正義感にあったことは見逃されてはならない。正義はどこで悪に変わったのだろうか? このあたりを考えるうえで、当書は必読の一冊と言えるだろう。
都市計画における卵とオムレツ
卵を割らずにオムレツをつくる料理人は可能か。
「住民を移転させずにゲットーを撤去できる建築家がいたら、それに乾杯しよう。卵を割らずにオムレツをつくる料理人に万歳をいうのと同じことだ」(p241)
渡邉泰彦『評伝ロバート・モーゼス:世界都市ニューヨークの創造主』
↑上記は、ロバート・カロやジェイン・ジェイコブズがモーゼスを批判ことに対するモーゼスの応答である。なるほど、建築家(都市計画家)を料理人にたとえ、住民を卵にたとえ、都市をオムレツにたとえたユーモラスな比喩である。この比喩は単にユーモラスなだけではなく、重要なことを示唆している。それは、都市に住まうひとが卵のように割れやすいということ、これである。卵とオムレツという比喩を題材にしながら、少し考えてみたい。ただし、これはあくまでメモに過ぎないことを断っておく。
卵が弱く割れやすいこと。
卵と壁
村上春樹はこんなことを述べていた。「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます
」と。なるほど、卵が正しいかどうかは関係ない。そうではなくて、ただ卵は弱くて割れやすい。だから、そちら側に立たなくてはならない。 都市計画家であれ、都市に住まうひとであれ、卵と向き合わなくてはならない。なぜか? 卵は弱くて割れやすいからである。それ以上、理由に深さを求めてはならない。弱く割れやすい卵があること、その事実に対面すること、これが都市の倫理的次元のはじまりではないだろうか。
卵の弱さに向き合うこと
卵は弱くて割れやすいがゆえに、放っておくと割れてしまう。都市という外界には沢山の危険がある。台風が発生することもあれば、病原菌が蔓延することもある。雑踏のなかで歩行者に踏まれるかもしれないし、時間が殻を風化させるかもしれない。だから、何かの拍子に卵が割れてしまうことがないように、みなが卵の弱さに向き合うことが重要である。卵は弱いがゆえに割れてしまう。この儚さを知ることからはじめなくてはならない。卵の弱さに向き合うこと、これが都市計画家、そして都市に住まうひとの責任ではないだろうか。この責任を失ったとき、それを都市と呼べるのだろうか? そんな都市を誰が望むと言うのか?
卵を割ってオムレツをつくること。
都市計画家によるオムレツ
卵は弱い。その弱さに対して、都市計画家は応答しなくてはならない。応答のなかで一番簡単な方法は、卵を割ってオムレツをつくることである。これがモーゼスのとった態度である。モーゼスは卵の弱さに向き合うことをせず、何も考えずに卵を割り、オムレツをつくってしまった。「オムレツは美味しいから卵を割ってよい」と安直に考えてしまったのである。卵の弱さを知りながら、卵を叩きつぶすことは暴力である。たとえオムレツがどれ程に美味しくても、卵の弱さに向き合うこともせず、オムレツをつくる態度は倫理的に許されないだろう。卵の弱さに向き合わずにオムレツをつくると、無駄にオムレツをつくり過ぎてしまったり、卵の割り方が雑になって味が落ちたりする。
都市に住まうひとのオムレツ
また、都市に住まうひとがオムレツを求めることもある。都市をこうしたい、都市はこうあるべきだ、と声をあげるのだ。別にオムレツを食べるのは悪いことではない。問題は、オムレツが弱い卵の犠牲のうえに成立することへの無知である。いまここで明言しておこう。卵は弱く、卵を割らずにオムレツをつくることは出来ない。これを知ったうえで、無神経に卵を割ることは許されないし、都市計画家に卵を割らせて責任逃れすることは許されない。オムレツは弱々しい卵のうえに築かれる。これを理解することが重要である。そして、いま僕らはオムレツのなかに住んでいることも忘れてはならない。これを理解した者だけに、オムレツを食べる権利がある。
オムレツをつくらなくても卵は割れること。
オムレツに否定的な態度
また、オムレツをつくることに否定的な態度をとるひともいる。彼らはオムレツに否定的なのだが、だからこそ、オムレツ以外の卵が割れやすいという弱さにも無関心である。たしかに、オムレツは弱々しい卵のうえに築かれる。ただし、オムレツにならなかった卵だって同様に弱いことを忘れてはならない。オムレツになるならないにかかわらず、卵は弱く割れやすい。オムレツ否定派に、いまここで宣言しておこう。オムレツ以外の卵も弱く割れやすいのだ! 君たちが、放っとておくと卵は割れてしまうのだ! いまこの瞬間にも、君たちが無関心であることによって割れている卵があるのだ! オムレツにならない卵だって同様に弱いののだ。卵の弱さに応答するかは問題ではない。応答可能性が責任であり、いま、このテクストを読んだ瞬間、君たちは応答可能な状態になったのだ。
卵の弱さに対して、都市に住まうひとも責任を持っている。卵が割れそうであることに気がつきながら、オムレツ否定を決め込むことは、卵の弱さからの逃亡である。NINBY(私の裏庭にだけは何もつくらせない)、BANANA(なにがなんでもなにかの近くには何もつくらせない)、NOTE(そこもかしこも全部ダメ)、こうした動きはオムレツ以外の卵の弱さを無視することの宣言である。本当にそれでいいのだろうか? これを続けると、結局のところ卵は割れてしまう。なぜか? あらゆる卵は弱く割れやすいからである。その自分の目にみえる範囲の卵以外に無関心な態度を貫けば、幾つもの卵が割れてしまう。オムレツを否定するからといって、卵の弱さに無関心であってはならない。
卵を茹でること。
ゆで卵は割れにくい
卵の弱さに気がつきながら、それを無視せず、卵を茹でてしまう都市計画家もいる。彼らは、卵を割らないために、ゆで卵にしてしまうのだ。もし都市計画家が卵を割らないことだけ目的とするならば、沢山のゆで卵をつくることが出来るだろう。しかしながら、ゆで卵は硬くて割れにくい。卵を茹でた時点において、卵は弱さを失なうことになる。その卵は強く割れない卵であるそうなれば、都市計画家は卵の弱さと向き合わなくてすむようになり、強い卵を考えるだけでよくなる。要するに、卵の弱さは卵の強さへとすり替えられる。しかしながら、本当にそれでよいのだろうか?
ゆで卵は割れ憎い
都市とは、卵の弱さに向き合うものであり、卵の強さに向き合うものではない。問題のすり替えは卑怯である。卵の弱さに応答しようとした結果、卵の弱さを奪い取ることは許されない。要するに、卵の弱さへの応答として、卵を強くすることは許されない。ジェイコブズに影響を受け、市民に寄り添ったワークショップを行なう都市計画家はゆで卵の量産に手を貸していないだろうか…? 卵の弱さに向き合うこと、その答えは卵を茹でて強くすることではない。弱い卵に向き合うことが正義なのである。
オムレツに「いただきます」を言うこと。
都市というものを、弱い卵に向き合うことから考えてみた。オムレツは弱々しい卵のうえに築かれる。そして、いま僕らはオムレツのなかに住んでいる。そんななか、都市計画家は、都市に住まうひとはは何から始めればよいのか? 僕は、オムレツに「いただきます」ということを提案したい。「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵
」であり、どれも弱く割れやすい。いただきますは、犠牲になった食物への感謝という明確な目的があるのではない。そうではなくて、「いただきます」という何気ない小さな言葉が、弱々しい卵との関係を切り拓き、都市への気遣いを生じさせる。ふとした瞬間、「いただきます」と挨拶してみよう。人は都市に対して少しだけ優しくなれるだろう。
メモはこのくらいにするとして、『評伝ロバート・モーゼス:世界都市ニューヨークの創造主』は、ジェイコブズ的なまちづくりに世論が傾いてゆくなか、強いリーダーシップで都市を開発したモーゼスの功罪を再評価するための重要な一冊になるだろう。また、当書の著者である渡邉泰彦が翻訳したアンソニー・フリントの『ジェイコブズ対モーゼス: ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』も併せて読むと理解が深まる。両方を読まれることをおすすめしたい。
