伊東豊雄

伊東豊雄 建築家 作品・生涯・思想・著作

伊東豊雄は日本の建築家である。伊東豊雄とは誰か? 作品、生涯と思想、著作の順番に簡単に追いかけてみたい。少しでも建築に興味を持ってもらえたら嬉しい。

作品

伊東豊雄の作品代表作品や建築の特徴

伊東豊雄の代表作、16選

00

はじめに

まず、伊東豊雄の代表的な作品を追いかけてみよう。ここでは、重要だと思われる作品を独断と偏見でピックアップして、年代順にまとめている。興味がある方は、自分なりに調べて見るとよいだろう。

01

中野本町の家 (White U)

1976年の作品間違いなく伊東豊雄の原点として名高い、コンクリートの壁に囲まれた馬蹄形の平面の住宅。流れるような閉鎖的な白い空間のなか、モルフェーム(形態素)と名付けられたリズミカルに配置された家具やスカイライトの効果によって、音楽的な体験が生まれてゆく。この空間のあり方は、『上和田の家』や『笠間の家』にまで展開される。(著作権の関係で写真は掲載できません。)

02

シルバーハット

1984年の作品。大小7つのアーチ状の屋根がふわりと架けられた住宅。これは「住まうこと」を徹底的に突き詰めた結果であり、アーチ状の屋根の下の空間に、様々な生活の表情が浮かびあがることが期待された。シルバーに輝く宇宙船のようにSF的でありながら、プリミティブな小屋のようにバラック的である住宅は、住まうひとによって生きられる空間としての自由を与えている。分かりやすく言えば、テントのしたで暮らすような軽やかな居心地のよさが実現されているということ。『中野本町の家』の閉鎖的な空間から一転して、開放的な空間に向けて舵が切られたのが分かる。

シルバーハット
シルバーハット(右側) 1984©kentamabuchi
03

横浜風の塔

1986年の作品。横浜駅西口に静かに佇む塔である。地下商店街の効果水槽と換気のためのコンクリートタワーという既存の建物の改修なのだが、コンクリートタワーの表面にはミラーが貼られ、その外側をパンチングされたアルミパネルが囲むという構成。このパンチングされたアルミの皮膜に対して、環境に応じた表情がランプで映し出される。彫刻的でシンボリックな形態に頼ることなく、皮膜が風で漂うような柔らかい表現は、他の建築家には見られないものである。無個性で押し付けがましくなく、風の変様体とでも言える軽やかな表現が模索されている。

横浜風の塔
横浜風の塔 1986©Wiiii(modified), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
04

神田Mビル

1987年の作品。皮膜についての関心が、三角形が立ち並ぶコンクリートファサードへと結実している。あまり注目されることが少ない作品だが、後述する『TOD’S表参道ビル』や『MIKIMOTO Ginza 2』のファサード表現を先取りしたような先駆的な作品である。担当は、伊東事務所に所属していた妹島和世。『横浜風の塔』に比べてコンクリートの素材感や無骨さが剥き出しになっているが、ガラス面に光が反射する時間帯に訪れるなら、軽やかなファサードが浮上するのが感じられる。抽象的かつ平面的なファサード表現に向かうまでの過渡期の作品。(詳細な解説はこちら↗︎

神田Mビル
神田Mビル 1987@Architecture Museum
神田Mビル
神田Mビル 1987@Architecture Museum
05

下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館

1993年の作品。諏訪湖という景観と調和した建築。緩やかに弧を描く一枚の壁に対して、銀色の屋根が被せられている。この銀色の皮膜は、周囲の風景を映し出す軽やかなものであり、内部に流動的な空間を産み出すのにも寄与している。『中野本町の家』における閉ざされた空間と、『横浜風の塔』や『シルバーハット』における軽やかな皮膜の空間とが結びついたような名作。伊東が諏訪で育ったこともあり、諏訪湖と建築の関係性は絶妙である。(詳細な解説はこちら↗︎

下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館 1993@Architecture Museum
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館 1993@Architecture Museum
06

せんだいメディアテーク

2001年の作品。プレートと呼ばれる7枚のフラットスラブと、チューブと呼ばれる樹木のような構造体で構成され、透明な皮膜が覆うという構成。部屋という概念を持たず、フラットでフレキシブル床であるが、有機体のようなチューブが均質な空間を乱すことによって、流動性を持った空間が生まれている。チューブは構造を支える役割だけでなく、自然光や新鮮空気などを送りこむ役割も兼ねるため、まるで建築のなかに自然が挿しこまれたような印象を与える。このような、外部が内部が反転してゆく在り方は『台中国家歌劇院』にまで繋がってゆく。

せんだいメディアテーク
せんだいメディアテーク 2001©Tomofumi Sato (modified), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
07

ブルージュ・パビリオン

2002年の作品。特に機能があるわけではない小さなパビリオンだが、新しい構造体への試みがなされている。薄いハニカムパネルでつくられた壁と屋根に対して、薄い楕円形のアルミの板が貼られているが、重要なことは、両者が支え合う構造になっていることである。すなわち、薄いハニカムパネルだけでは潰れてしまうため、楕円形のアルミ板で補強されている。したがって、楕円形のアルミ板がいくら装飾に感じられようと、それは単なる装飾ではなく、構造体の一部として必要不可欠なのである。構造体が装飾になるという表現様式を見つけ出した意義は大きく、『サーペンタイン・ギャラリー・パビリオン』や『TOD’S表参道ビル』などの試金石となる。

ブルージュ・パビリオン
ブルージュ・パビリオン 2002©Amaury Henderick
08

まつもと市民芸術館

2004年の作品。この時期あたりから、伊東が設計する建築のファサードは、徐々に官能性を持ちはじめてゆく。軽やかな皮膜への関心が、官能的で様々なものを連想させるファサードに結実してゆくのが分かる。『まつもと市民芸術館』は、GRCパネルに嵌め込まれた小さなガラスによって、泡のように美しい外壁が表現されている。水玉模様の湾曲した外壁が流れるように立つだけの建築だが、この外壁に沿って流れるように歩く体験は魅力的であり、『下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館』を彷彿とさせる。(詳細な解説はこちら↗︎

まつもと市民芸術館
まつもと市民芸術館 2004@Architecture Museum
まつもと市民芸術館
まつもと市民芸術館 2004@Architecture Museum
09

TOD’S表参道ビル

2004年の作品。ケヤキ並木をモチーフにしたファサードが特徴的な作品。構造がそのままファサードとなり、ファサードがそのまま装飾的表現となっている点において、『ブルージュ・パビリオン』の延長線上にある作品である。ファサードが構造を負担しているため、内部に柱がない。ファサードだけで、多様な場を持つ建築が実現される可能性を示したという意味で、建築史的に価値があるだろう。『神田Mビル』でのコンクリートの無骨なファサードへの反省からか、抽象的で平面的なファサードが徹底され、驚くほど軽やかである。(詳細な解説はこちら↗︎

TOD’S表参道ビル
TOD’S表参道ビル 2004@Architecture Museum
TOD’S表参道ビル
TOD’S表参道ビル 2004@Architecture Museum
10

MIKIMOTO Ginza 2

2005年の作品。『TOD’S表参道ビル』に引き続き、美しいファサードの表現が試みられている。宝石のような不定形の開口を持つ美しいファサードが、空に伸びてゆく様子は上品である。『TOD’S表参道ビル』と同様、内部に柱がなく、構造と表層が一体化しながら装飾のような効果を産出している。注目するべきは壁の薄さである。二枚の鉄板のあいだにコンクリートを詰めるという特殊な方法で実現された壁の薄さは技術の賜物であり、その薄さゆえに、一枚の布のような軽やかさを感じることを可能にする。

MIKIMOTO Ginza 2
MIKIMOTO Ginza 2 2005©Naoya Fujii (modified)
11

多摩美術大学図書館(八王子キャンパス)

2007年の作品。1Fにはアーケードギャラリーと呼ばれる洞窟のような空間が、2Fには書庫や閲覧室が配置されている。緩やかな曲線を描くアーチは、その足元においては空間を連続させて、その上部においては空間を文節する。その結果、図書館内部での活動が緩やかに結びついてゆく。やはりここでも、アーチの壁の薄さに着目されたい。鉄板をコンクリートで覆うことで実現された薄いアーチは軽やかで、西洋のアーチとは異なる抽象性を感じさせる。

多摩美術大学図書館
多摩美術大学図書館 2007©Tony (modified)
12

座・高円寺

2008年の作品。芝居小屋のテントのような劇場である。多くの丸穴が開けられた皮膜が特徴的だが、その軽やかな印象を実現するために、難しい施工技術が用いられている。この洋服のような軽やかさが伊東建築の特徴である。あえて閉じるというコンセプトの公共施設だが、考えてみると、ここまで閉ざされた公共建築というのは珍しい。こうした閉じた空間から新しい文化が創作されるという建築的な配慮である。公共建築は入りやすいだけが正いわけではないことを示した意義は大きい。また、あまり優雅な階段は息を呑むほど美しい。(詳細な解説はこちら↗︎

座・高円寺
座・高円寺 2008@Architecture Museum
座・高円寺
座・高円寺 2008@Architecture Museum
13

台湾大学社会科学部棟

2013年の作品。アルゴリズムによって生成された樹木のような構造体が立ち並ぶ空間は圧巻である。ルールによって生まれた有機的な表現が空間全体を覆うという点で、いままでの伊東建築における秩序の側面がより明確になってきた印象を受ける。コンピュータによるアルゴリズムを積極的に活用することで、幾何学的な形態を用いた重厚な空間ではなく、植物の成長のような動的なパターンが表現されている。『台中国家歌劇院』に繋がってゆく重要な作品である。

台湾大学社会科学部棟
台湾大学社会科学部棟 2013@flickr
台湾大学社会科学部棟
台湾大学社会科学部棟 2013©Yu tptw (modified), CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
14

みんなの森 ぎふメディアコスモス

2015年の作品。大きく波打つ天井から、グローブと呼ばれる丸い帽子のようなものが吊られている。グローブはトップライトに合わせて設置されているため、グローブの周辺から自然光が降り注ぎ、また、上部からの自然換気も可能になっているという点で、環境計画に優れている。『せんだいメディアテーク』のチューブの試みと同様、建築内部に自然入り込んでいるような印象を受ける。2011年の東日本大震災以降からだろうか、伊東の建築は以前の作品よりも優しい雰囲気を漂わせている。

みんなの森 ぎふメディアコスモス
みんなの森 ぎふメディアコスモス 2015©Asturio Cantabrio (modified), CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
15

バロック・インターナショナルミュージアム・プエブラ

2016年の作品。55枚のねじられた壁によって流動的な空間が生まれている。メキシコにある建築だが、植物の根が地上に伸びていく力強さが感じられる。ホワイトキューブが立ち並ぶ空間に対して、キューブの隅部を捻るという操作で構成されているのだが、こんな単純な操作だけで、キューブの隅部に小さな緩衝空間が生まれ、その小さな空間で自然光や中庭を感じることができる。伊東の設計センスが感じられる至極の建築。

バロック・インターナショナルミュージアム・プエブラ
バロック・インターナショナルミュージアム・プエブラ 2016©Luis Alvaz, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
16

台中国家歌劇院

2016年の作品。言わずと知れた伊東の最高到達点である。今までの伊東建築の素晴らしい点をすべて凝縮したかのような作品。初期の白い住宅群の豊潤さ、構造とファサードと施工の合流、自然的な秩序をともなった懐かしい美しさ、官能的で流動的で自由なプラン、そのすべてが美しい建築である。是非、訪れたい作品である。

台中国家歌劇院
台中国家歌劇院 2016©Eilian Parker
台中国家歌劇院
台中国家歌劇院 2016©李家宇, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
台中国家歌劇院
台中国家歌劇院 2016©Wpcpey (modified), CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

伊東豊雄の作品一覧

建築 竣工年 場所
アルミの家 1971 神奈川 - 藤沢市
千ヶ滝の山荘 1974 長野 - 北佐久郡
黒の回帰 1975 東京 - 世田谷区
中野本町の家 1976 東京 - 中野区
上和田の家 1976 愛知 - 岡崎市
ホテルD 1977 長野 - 小県郡
PMTビル―名古屋 1978 愛知 - 名古屋市
PMTビル─福岡 1979 福岡 - 福岡市
小金井の家 1979 東京 - 小金井市
中央林間の家 1979 神奈川 - 大和市
笠間の家 1981 茨城 - 笠間市
梅ヶ丘の家 1982 東京 - 世田谷区
花小金井の家 1983 東京 - 小平市
田園調布の家 1983 東京 - 大田区
シルバーハット 1984 東京 - 中野区
東京遊牧少女の包 1986 None
馬込沢の家 1986 千葉 - 船橋市
レストランバー・ノマド 1986 東京 - 港区
横浜風の塔 1986 神奈川 - 横浜市
神田Mビル↗︎ 1987 東京 - 千代田区
サッポロビール北海道工場ゲストハウス 1989 北海道 - 恵庭市
レストラン・パスティーナ 1989 東京 - 世田谷区
名古屋世界デザイン博:メイテック・中日新聞・CBCパビリオン 1989 愛知 - 名古屋市
浅草橋Iビル 1989 東京 - 台東区
中目黒Tビル 1990 東京 - 目黒区
八代市立博物館・未来の森ミュージアム 1991 熊本県 - 八代市
八代ギャラリー8 1991 熊本県 - 八代市
フランクフルト市立劇場照明デザイン 1991 ドイツ - フランクフルト
湯河原ギャラリーU 1991 神奈川 - 足利下郡
ホテルP 1992 北海道 - 斜里郡
アミューズメント・コンプレックス H 1992 東京 - 多摩市
松山ITMビル 1993 愛知 - 松山市
下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館↗︎ 1993 長野 - 諏訪郡
フランクフルト市エッケンハイム幼稚園 1993 ドイツ - フランクフルト
養護老人ホーム八代市立保寿寮 1994 熊本 - 八代市
つくば南駐車場 1994 茨城 - つくば市
八代広域消防本部庁舎 1995 熊本 - 八代市
蓼科S邸 1995 長野 - 茅野市
長岡リリックホール 1996 新潟 - 長岡市
小国S邸 1996 熊本 - 阿蘇郡
東京大学物性研究所 1997 千葉 - 柏市
横浜市東永谷地区センター・地域ケアプラザ 1997 神奈川 - 横浜市
大館樹海ドームパーク 1997 秋田 - 大館市
大田区休養村とうぶ 1998 長野 - 東御市
野津原町庁舎 1998 大分 - 大分郡
祐天寺T邸 1999 東京 - 世田谷区
大社文化プレイス 1999 島根 - 出雲市
桜上水K邸 2000 東京 - 世田谷区
大分アグリカルチャーパーク 2000 大分 - 速見郡
ハノーバー2000国際博覧会 「健康館」インスタレーション 2000 ドイツ - ハノーバー
せんだいメディアテーク 2000 宮城 - 仙台市
「ショロン」 山崎広太ダンス公演舞台デザイン 2001 None
ブルージュ・パヴィリオン 2002 ベルギー - ブルージュ
稲城W邸 2002 東京 - 稲城市
サーペンタイン・ギャラリー・パヴィリオン 2002 2002 イギリス - ロンドン
東雲キャナルコートCODAN 2003 東京 - 江東区
みなとみらい線 元町・中華街駅 2003 神奈川 - 横浜市
まつもと市民芸術館↗︎ 2004 長野 - 松本市
アルミコテージ 2004 山梨 - 南巨摩郡
TOD’S表参道ビル↗︎ 2004 東京 - 渋谷区
福岡アイランドシティ中央公園中核施設ぐりんぐりん 2005 福岡 - 福岡市
フロニンゲン アルミブリックハウジング 2005 オランダ - フロニンゲン
オフィス・マーラー4・ブロック5 2005 オランダ - アムステルダム
「フィガロの結婚」舞台装置 2005 長野 - 松本市
SUS福島工場社員寮 2005 福岡 - 那須川市
MIKIMOTO Ginza 2 2005 東京 - 中央区
瞑想の森 市営斎場 2006 岐阜 - 各務原市
バルセロナ見本市・グランビア会場 / セントラルアクシス・パビリオン8 2006 スペイン - バルセロナ
VivoCity 2006 シンガポール - ハーバーフロント
コニャック・ジェイ病院 2006 フランス - パリ
多摩美術大学図書館(八王子キャンパス) 2007 東京 - 八王子
バルセロナ見本市・グランビア会場 / エントランスホール・パビリオン 2007 スペイン - バルセロナ
SUMIKA パヴィリオン/SUMIKA PROJECT by TOKYO GAS 2008 栃木 - 宇都宮市
座・高円寺↗︎ 2008 東京 - 杉並区
高雄国家体育場 2009 台湾 - 高雄市
スイーツアベニュー アパートホテル ファサードリノベーション 2009 スペイン - バルセロナ
White O 2009 チリ - マルベリャ
トーレス・ポルタ・フィラ 2010 スペイン - バルセロナ
ベルビュー・レジデンシズ 2010 シンガポール - オクスリー・ウォーク
台北世貿広場改修計画 2011 台湾 - 台北市
今治市伊東豊雄建築ミュージアム 2011 愛媛 - 今治市
今治市岩田健母と子のミュージアム 2011 愛媛 - 今治市
東京ガス 千住見学サイト Ei-WALK CONCEPT ROOM 2011 東京 - 荒川区
東京マザーズクリニック 2011 東京 - 世田谷区
ヤオコー川越美術館(三栖右嗣記念館) 2011 埼玉 - 川越市
エルメス パヴィリオン 2013 スイス - バーゼル
松山 台北文創ビル 2013 台湾 - 台北市
台湾大学社会科学部棟 2013 台湾 - 台北市
南洋理工大学学生寮 2014 シンガポール - ナンヤンアベニュー
山梨学院大学 国際リベラルアーツ学部棟 2015 山梨 - 甲府市
みんなの森 ぎふメディアコスモス 2015 岐阜 - 岐阜市
バロック・インターナショナルミュージアム・プエブラ 2016 メキシコ - プエブラ
台中国家歌劇院 2016 台湾 - 台中市
神戸芸術工科大学 学生会館 2016 兵庫 - 神戸市
宮城学院女子大学附属認定こども園「森のこども園」 2016 宮城 - 仙台市
薬師寺 食堂(内部計画) 2017 奈良 - 奈良市
ウッドワン金沢営業所兼ショールーム 2017 石川 - 金沢市
大谷鉄工所 淡路事業所 2018 兵庫 - 淡路市
川口市めぐりの森 2018 埼玉 - 川口市
赤山歴史自然公園 歴史自然資料館・地域物産館 2018 埼玉 - 川口市
信毎メディアガーデン↗︎ 2018 長野 - 松本市
生涯と思想

伊東豊雄の生涯と思想キーワードや経歴など

伊東豊雄の軌跡

はじめに

伊東豊雄の生涯と思想を追いかけてみよう。ここでは、重要だと思われる出来事やキーワードを独断と偏見でピックアップして、年代順にまとめている。簡単に分かりやすくまとめたものなので、時間軸などが前後させている場合もあるし、勝手な解釈している部分も多々ある。参考程度のものだと考えてください。

1941 - 1971菊竹清訓建築設計事務所時代

諏訪での少年時代、そして菊竹清訓の事務所へ

1941年、京城(現在のソウル)に誕生し、1943年に長野の諏訪に転居して、1956年に東京に向かうまで諏訪の自然のなかで暮らす。諏訪湖という閉じられた湖を肌で感じながら育ったことが、伊東の空間感覚の源泉となる。1957年、日比谷高校に入学して野球に明け暮れ、1961年に東京大学に入学。1964年には菊竹清訓建築設計事務所のアルバイトをはじめ、1965年に菊竹清訓設計事務所に入所。菊竹清訓設計事務所では『日本バンコク亜博覧会─エキスポタワー』や『多摩田園都市計画』を主に担当していたのだが、1969年にあてもなく退職してブラブラしたのち、1971年に『URBOT』という事務所を設立する。菊竹が伊東に与えた影響はとても大きいもので、以後の伊東作品にも菊竹の雰囲気を感じられるものも少なくない。

エキスポタワー
エキスポタワー 1970 菊竹清訓設計 Own work, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
1971 - 1979自閉的な白い空間から

アーバンロボット『URBOT』設立

『URBOT』はテクノロジーの夢への期待と、その挫折のなかに産まれ落ちた事務所である。エキスポタワーを担当した伊東だからこそ、そのテクノロジーへの不信感、テクノロジーを盲目的に信仰することへの違和感を感じたのだろう。ディズニーランドの地下帝国が明らかにするように、夢の国の裏側には驚くべき泥臭さが潜んでいるのであり、その泥臭さを無視して希望だけを歌うことなど到底できない。こうしたコンセプチュアルな事務所を立ちあげると、伊東は『アルミの家』を中心とした幾つかのプロジェクトを手掛けてゆく。そこに漂うニヒリズムの匂いに共感しない若者はいない。

昭和四十六年夏URBOTはテクノロジー信奉と、その支配への諦めから生じた気だるい感情が交錯する都市に産み落とされた私生児的建築である。その正式名をURBAN ROBOTという。

伊東豊雄「無用の論理」

白の住宅とモルフェーム

夢を諦めること。僕たちは世界を変える英雄ではないこと。そして、それでも何かを期待している自分に気がつくこと。そうした気づきによって生まれる倦怠感が、自閉症的な引きこもりを産み落とした結果、閉じられた白い住宅郡が浮上してくる。『千ヶ滝の山荘』、『上和田の住宅』、『中野本町の家』、『笠間の家』など。閉じられた白い住宅のなかは、洞窟のような空間が広がり、人々がそのなかを流れてゆく流動的なイメージが探究されている。ここでのキーワードは「モルフェーム(形態素)」である。音楽でいう乾いた音符のようなもの。様々な象徴的な意味を失って、形態だけへと還元された乾いた死体のようなもの。これが散りばめられているだけ住宅。ロラン・バルトが狙ったように、物語ではなく、物語を産み出す断片が問題となっている。1970年代の伊東作品の特徴は、自閉的な白い空間だと言えるだろう。

機能や合理性という意味を離れ、何らの情感をも伴わずにただフォルムの単位としてのみ浮遊するモルフェームという概念を、私は領域を分節するための道具として据えたかった。

伊東豊雄「白い環」
1980 - 1989俗なる世界、消費の世界へ

白の住宅からの脱皮、俗なる世界へ

1980年に伊東は一つのテクストを発表する。そこでは、聖なる世界と俗なる世界の対比を指摘して、俗なる世界から物事を考えなくてはならないことが指摘される。その背景には、閉ざされた白の住宅を果たしてつくり続けていいのか、都市を無視して自閉しつづけることは許されるのだろうか、このまま社会に背を向けるのはどうなのか、という悩みがあったと推察される。『小金井の家』、『中央林間の家』を中心としながら、フォルマスティックな方法から脱却するべく、『Dom-inoドミノ』というプロジェクトを発足し、住宅の商品化という俗なる世界に足を踏みいれはじめる。要するに、都会の主婦がどのような住宅に住みたいのか、といった建築家が無視してきた俗なる側面を拾いあげてゆくのである。この試みは『シルバーハット』へと結実する。軽くてひらひらの屋根があるだけ、だからこそ都市に開かれているし、人間が生きる場所が素直に浮かびあがる。

この〈俗〉なる世界に潜伏して、どこまで影像としての〈聖〉なる空間を浮かび上がらせるかは、ひたすら仕掛け人としての建築家のしたたかさにかかっているといえよう。

伊東豊雄「〈俗〉なる世界に投影される〈聖〉」
シルバーハット
シルバーハット 1984 ©Kenta Mabuchi (modified)

消費の海へ浸らずして新しい建築はない

俗なる世界に足を踏みいれることは、主婦の住宅を分析するだけにとどまらず、消費の世界へと歩みを進めることに結びつく。とりわけ、東京都という街は消費文化の最先端にあった。あらゆるものが商品として記号化され、あらゆるものがディスプレイのうえに表層化され、建築はファッションのように消費されてゆく。伊東は、そうした消費を否定するのではなく、それをリアルな世界だと認めたうえで、そのさきに建築なるものが成立するかを問うた。「群衆のなかで退屈するような人間は、バカだ!愚か者だ!わたしはそんなヤツを軽蔑する!」とボードレールが叫んだのと同様、消費の海に浸ることで見えるものがある。

表現としては、即物的なアルミが使われはじめ、『東京遊牧少女の包』『レストランバー・ノマド』『横浜風の塔』など、ひらひらと漂う風のようなデザインが試される。ノマドと聞いて思い浮かぶのは、ドゥルーズの哲学である。伊東が消費文化に目を向けはじめたこの時代は、ニューアカデミズムが隆盛した時期である。浅田彰の『構造と力』や『逃走論』がドゥルーズを紹介したのが1980年代の半ば。伊東は、従来の聖なる世界を捨て去って、俗なる世界に飛びこみながら、建築からの大脱走を図ったに違いない。消費文化に、シラケつつノリ、ノリつつシラけること、これである。その先に新しい建築が浮上することを期待して。

私は建築の概念を問おうとするときにフォルマリスティックな操作ではなく、まず新しい都市生活のリアリティを発見することから始めたいと考えている。

伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」
横浜風の塔
横浜風の塔 1986©Wiiii(modified), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
1990 - 2001スクリーンの思索からせんだいメディアテークへ

スクリーンと流動的なイメージ

消費文化は、永遠に流れ続けるような流動的なイメージを提供する。とりわけ、コンピュータの画面のうえにあらゆるものが滑ってゆくように、ドゥルーズが表面を滑りゆくアリスを見出したように、伊東はその薄幕にこだわりはじめる。透明な皮膜としての『浅草橋Iビル』『中目黒Tビル』『松山ITMビル』などのガラススクリーンの試みや、『下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館』の銀色の皮膜の試みなど多種にわたるが、いずれにせよ、スクリーン的な薄膜に対して、流れるような流動的な空間が実現されている。こうした流動的な空間は、『長岡リリックホール』や『まつもと市民芸術館』にまで表現されてゆくものである。

薄い膜面は人間の皮膚のように外界に敏感に反応し、内と外の新たな関係をつくり出すようなスクリーンでありたいと考えていた。

伊東豊雄「ガラスの界面」
まつもと市民芸術館
まつもと市民芸術館 2004@Architecture Museum

公共建築との戦い方を学ぶ

この時期において、薄いスクリーンの空間を考えるだけではなく、公共建築の仕事も徐々に増えてゆくことが、伊東の作風に影響を与えてゆく。公共建築は住宅とは異なり、融通が効かない管理体制のなかで定石どおりの建物がつくられてしまう。たとえ開放的で人々が気軽に近づける空間をつくろうとしてもと、公共建築の閉じた設計システムが、よりよい建築を設計することを邪魔してしまう。この閉じた制度との戦いのなか、『八代市立博物館・未来の森ミュージアム』、『養護老人ホーム八代市立保寿寮』、『八代広域消防本部庁舎』などを完成させた伊東は、徐々に公共建築への戦い方、その閉じたシステムへの戦略を学んでゆく。そして、その戦略が『せんだいメディアテーク』へと結実する。

この閉ざされたプロセスと閉ざされた空間を開くためにいったい何が可能なのか、それがこの七年間われわれが考え続けてきたテーマであり、それを可能にするためにはわれわれなりの戦略(方法)が必要であることを学習した。

伊東豊雄「通過点としての公共建築」

せんだいメディアテークの完成(2001年)

薄い透明スクリーンの思索、公共建築との戦い方、これらは『せんだいメディアテーク』において明確に合流する。フラットな床、海藻のようなチューブ、透明な薄いスクリーンをもって、開放的な建築がつくられた。開放的というのは、開放的な空間というだけではなく、その建築設計のプロセスも開放的なのである。建築としては、チューブによって見出された流動的な場所があるばかりで、その先のヴィジョンは市民らを含めて住みながらつくる。市民が全面的に関与しながら、俗なる世界として生きられるものであるが、それは市民らの乱雑さに押し潰されて無秩序になるわけではなく、力強いチューブによって聖なる空間が生成される。ここにおいて、伊東は建築性への新しい回答を提出したのである。実際、『せんだいメディアテーク』はよく使われている。

したがって、〈住みながらつくる〉とは、決断や捨象を繰り返すゲームだと言うことができよう。かつての創造行為のように最終像、最適解を決定してしまうのでなく、絶え間ない〈生成〉を可能にするシステムへと変えることである。そのとき、建築をつくる行為は予測しえない出来事の連鎖となる。それは〈非線型の出来事〉となるのである。

伊東豊雄『建築:非線型の出来事』
せんだいメディアテーク
せんだいメディアテーク 2001©Tomofumi Sato (modified), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
2002 - 2010構造へのまなざしの開花

構造=皮膜=表現

『せんだいメディアテーク』でスクリーンや公共建築に対して回答を提出した伊東は、次のステップへと歩みを進める。『せんだい』の柱の構造の強さのようなものに焦点をあててゆく。とりわけ転機となるのは『ブルージュ・パヴィリオン』であり、「構造=皮膜=表現」という様式を見出した結果、『サーペンタイン・ギャラリー・パヴィリオン 2002』、『TOD’S表参道ビル』、『まつもと市民芸術館』、『MIKIMOTO Ginza 2』などの独特な皮膜表現を展開してゆく。薄膜が支持体かけられるというよりも、薄膜それ自体が自立した支持体となる。これらのプロジェクトにおいて、ポストモダニズムが無視してきた構造の側面が明確に打ち出される。単なる表層が構造体になるならば、表層はもはや表層ではなく、建物を支える重要な深層にすらなりうる。

「せんだい」以降、"新しい構造"に目覚めたということもあります。これは新しい構造を発見するというより、「せんだい」で構造の強さにインパクトを受けていたことから、構造の強さが「建築」を元気にするようなことをやりたいと。

伊東豊雄『伊東豊雄の建築2 2002-2014』
TOD’S表参道ビル
TOD’S表参道ビル 2004@Architecture Museum

構造とアルゴリズム

表現としての構造という考え方は、情報技術の処理能力が飛躍的に向上したことも影響している。たとえば、『せんだい』のチューブのような揺らいだ柱で構造を担保するためには、建物が地震で崩壊しないため、コンピュータによる膨大な構造解析が求められる。要するに、構造と表現を結びつけるとき、そこにはコンピュータの構造解析できる程度のルールが必要なのである。完全な無秩序の場合、建物が地震に耐えるかどうか計算できないからである。したがって、構造解析のシミュレーションがデザインに影響を与え、デザインが構造解析のシミュレーションに影響を与えるという、相互関係としてのルールを少なからず設定しなければならない。

構造と表現、シミュレーションとデザイン、両者の反復のなかで、コンピュータのアルゴリズム的なルールが顔を覗かせてくる。そのルールによって、あたかも自然に近いような形態が事後的に浮かびあがる。『TOD’S表参道ビル』では樹木のようなものが、『多摩美術大学図書館』では洞窟のようなものが、『座・高円寺』では波のようなものが、『今治市伊東豊雄建築ミュージアム』では泡のようなものが、ルールのなかで現象してくる。構造としてのルールのなかで、自然的な空間が浮かびあがる。これは、建築がその建築性を失わないことを問い続けた伊東ならではの視点であった。このルールが徹底化されたとき、『台湾大学社会科学部棟』、『バロック・インターナショナルミュージアム・プエブラ』、『台中国家歌劇院』などの後期のプロジェクトに続いてゆく。

ルールについては、見えても見えなくても、どちらでもイイと思っています。ただ、ルールが明確に存在していることが大事。

伊東豊雄『PLOT 05 伊東豊雄』
座・高円寺
座・高円寺 2008@Architecture Museum
2011 - 東日本大震災以後

東日本大震災を受けて

2011年以後、『台湾大学社会科学部棟』、『バロック・インターナショナルミュージアム・プエブラ』、『台中国家歌劇院』などの大きな海外プロジェクトを手掛ける一方、伊東は別の方向へと足を進めることになる。そのきっかは2011年の東日本大震災からである。震災を受けて、建築家の無力を感じた伊東は、建築家としてができることを模索しながら、『釜石復興プロジェクト』や『みんなの家』などに携わる。これらのプロジェクトが建築として優れているか、はたまた俗なる世界に埋もれすぎていいないか、という懸念を棚にあげるとしても、伊東のような世界的な建築家が震災に対して動くことによって、建築家の役割、強いては建築の領野などを問い直したことは重要である。

復興に参加したいのなら、普段から個人の表現行為にばかり固執していないで、もう少し謙虚に社会参加するための活動をしないとまずいのではないか。

伊東豊雄『あの日からの建築』

使うひとのための建築

震災を受けて、建築家の教育面にも力を入れはじめた伊東は、『伊東建築塾』という私塾を立ちあげたり、愛媛県の大三島での島の魅力を向上させるプロジェクトなど、机上の空論ではない人と人の繋がりをリアルに感じる場所を考えはじめる。そうした人と人のコミュニケーションを大切にする建築として、『岐阜メディアコスモス』や『信毎メディアガーデン』や『水戸市民会館』などがつくられている。これらは、従来の伊東建築のような力強さはなく、建築として優れているのか、はたまた空間として人を震わせるほどの魅力があるのか、何年後も人びとが大切に使える普遍性があるのか、こればかりは正直わからない。

ただ、伊東の初期の住宅からずっと変わらない《住まうこと》へのまなざし、すなわち建築は、建築をつかうひとが生きるための場所だという視点は失われることはない。この視点が、どのプロジェクトにおいても失われないこと、この点において伊東は信頼できる建築家である。いくら形態が奇抜であろうと、いくら形態が素朴であろうと、建築表現のやり方がコロコロ変わったとしても、伊東は建築が使うひとのためにあることを決して忘れない。だから、伊東建築は素晴らしい。もし興味がある人は伊東建築に訪れてみるとよいだろう。

今、私が目指している建築は、近代主義が切り離してしまった建築と人びとの距離を縮めること、いや一般の人たちの手に建築を取り戻すことです。そのことが、建築に自然を回復させ、地域性や歴史文化を継承させ、コミュニティを再生させることに繋がると考えています。

伊東豊雄『「建築」で日本を変える』
信毎メディアガーデン
信毎メディアガーデン 2018@Architecture Museum

さいごに

伊東の生涯と思想を追いかけてみたが、個人的な印象では、伊東は建築界のベルクソンなのだと思う。伊東の建築は、徹底的に俗なる世界からはじまり、外部からの秩序をむりやり押し付けることをしない。この態度の徹底にこそ、伊東建築の魅力があるのだろう。こうした芯のとおった態度から生まれる建築は、必ずや訪れたひとに魅力的な体験を与えるに違いない。ぜひ、伊東建築に訪れたいものである。

著作

伊東豊雄の著作おすすめの書籍や作品集など

伊東豊雄を知りたいひとへ。第一にすべきことは、近場にある伊東豊雄の作品を見に行くことである。第二すべきことは、次の作品集のいずれかを手にとって、作品を網羅的にパラパラ眺めることである。その後、もっと知りたいという方は著作に を手に取ってみよう。建築に馴染みがない入門者は、『伊東豊雄|21世紀の建築をめざして』、『日本語の建築』、『建築の大転換』、『にほんの建築家―伊東豊雄・観察記』のいずれかがよい。建築設計に関わる人は、『風の変様体』と『透層する建築』からはじめて、『PLOT 05 伊東豊雄』や『伊東豊雄読本―2010』へと足を進めるのがよいだろう。

おすすめの作品集3選(網羅的に作品を知りたい人向け)

01

『伊東豊雄 自選作品集:身体で建築を考える』

作品集として一冊目にお勧めしたいのは平凡社の自選作品集。自らの理念を最もよく表現できたと考える会心作30点が豊富な写真とともに並べられる。とりわけ、中沢新一が寄稿している「伊東豊雄の建築哲学」という文章は、伊東の建築を「足し算」ではなく「かけ算」でつくられていることを指摘しながら、「レンマ的思考を土台として、現代的な技術による、本質的な異質な建築」だと断定する一読すべきものである。また、諏訪で育った伊東の幼少期から現在に至るまで、伊東みずから描きなおす序文は掛け値なしに美しく、身体の奥に渦巻くエネルギーを建築に持ち込まなくてはならない、という問題意識は伊東の総決算である。作品ごとの説明も、端的で一切の無駄もない。高価だが、それに見合った価値がある。

02

『伊東豊雄の建築 1・2』

作品集として二冊目にお勧めしたいのはTOTO出版のもの。藤森照信と伊東豊雄の対談からはじまり、伊東のプロジェクトが会話形式でおさらいできる。その後、年代にしたがったテーマごとに作品が並べられ、各テーマごとに小さなインタビューが掲載されている。こららのインタビューは伊東豊雄事務所の所員によるものだが、なかなか読み応えあって、伊東の思想が徐々に引き出されてゆくのが感じられる。作品の写真だけではなく、図面やスケッチも豊富。伊東の文章というよりも、伊東とのラフな会話のなかで作品の変遷をたどりたい人にお勧め。伊東はこう述べる。「私にとって建築はいつの時代にも私自信であると同時に私自身を見返す他者なのだ」。

03

『NA建築家シリーズ 伊東豊雄 増補改訂版』

作品集として三冊目にお勧めしたいのは日経アーキテクチュアのもの。全二冊に比べると、伊東本人の言葉も少ない印象を受ける。ただ、プロジェクトの網羅性、驚くほど豊富な写真数、そして比較的に安価なことを考えると、悪くない作品集となっている。伊東作品をパラパラとめくりながら雑誌感覚で知りたい人は、まずこの本から始めるとよいだろう。

伊東本人のおすすめの著書6選(伊東豊雄の思想を知りたい人向け)

01

『風の変様体―建築クロニクル』

ぜひ勧めたいのは『風の変様体』という青土社から出ているもの。1971年から1988年までの、作品発表時の文章や他の建築家への批評文を年代順に掲載されているのだが、若かりし頃の伊東の苦悩や、真摯に向き合ってきた態度に心を打たれないものはいない。伊東豊雄の作品を語るならば、必読の一冊。とりわけ、URBOTという事務所を立ちあげたばかりの初期の論考やプロジェクトは文句なしで美しく、鳥肌が立つほど凛としている。「しかし彼は無用であるというその事実によって、逆に社会での特異の位置を占めうるのではないか」。自分が何者でもないことと向き合うこと、これが出来ている建築家は少ない。

02

『透層する建築』

『風の変様体』の続編であり、青土社から出ている。前作同様、1988年から2000年までの論考が年代順に掲載されている。初期の自閉的な住宅を離れて、公共建築を手掛けじはじめ、せんだいメディアテークという一つの結実する時期の論考である。伊東は言葉選びの天才である。《風の変様体》もそうだが、《透層する建築》という言葉一つで多様なイメージを浮かび上がらせる。透層とは、「異なる空間や異なるネットワークを無媒介に重ね合わせ、その層の間に透明な関係を発見していこうとする方法」を示しているのが、公共建築をつくる難しさを模索しながら、その困難から可能性を切り開こうとする文学的な著作となっている。『風の変様体』と『透層する建築』は伊東を深く知るうえで必読の二冊である。

03

『伊東豊雄|21世紀の建築をめざして』

前に紹介した2冊は素晴らしいから、図書館で借りてでも読んで欲しい著作なのだが、高価で入手しづらいうえ、哲学や文学を親まない人には少し読みにくい。そんな方にお勧めなのは、エクスナレッジから出た『伊東豊雄|21世紀の建築をめざして』である。コルビュジエとミースを比較しながらみずからを位置付け、自身の作品や思想を流れや渦というキーワードでまとめ直している。図版や写真やスケッチが豊富で分かりやすいが、かといって他の新書ほどレベルを落としている印象はなく、読後感も悪くない。まず、初心者が読むならこの一冊を勧めたい。

04

『日本語の建築』

PHP新書のもの。まず、新国立競技場の細かい事情が説明されながら、伊東の想いが語られる。新国立競技場コンペに参加した当事者ならではの意見は生々しい。その後、東日本大震災について語られた後、今までのプロジェクトが簡単におさらいされるのだが、少ない紙面でコンパクトにまとまっていて分かりやすい。また、小津安二郎の『東京物語』をベースとしながら東京への想い、そして日本語の曖昧さが生み出す空間について語られる。「日本語は、その余韻を結び合わせて意味を伝えていく言語であり、それこそが、日本語にとって非常に大切なのです。むしろ、言葉そのものには意味やルールはなく、それを聞いた相手が、その意味を読み取っていく。それが日本語です」。最後に、大三島を全体的に俯瞰して展望が述べられる。なかなかまとまっているので、新書ならこの一冊がよいだろう。

05

『あの日からの建築』

集英社のもの。あの日とは、東日本大震災が起きた日のことを指している。地震発生時の心境、建築家が被災地に対してできることへの無力感、人間と自然の関係性の再考、などが『釜石復興プロジェクト』や『みんなの家』などのとともに語られる。後半には、建築家が社会と関係を失わないように『伊東建築塾』を設立した経緯、また自身の建築家としての道を簡単にたどりなおしての反省、など分かりやすい語り口で並べられている。一般の方の伊東入門、あるいは震災と建築家の関係に興味がある方にはお勧めだが、伊東建築の魅力を知るには若干もの足りない印象。

06

『「建築」で日本を変える』

こちらは集英社のもの。『あの日からの建築』の続編的な位置の著作で、震災以後の伊東の歩みを知ることができる。近代的な都市への批判からはじまり、自然との関係回復、地域性の奪還、歴史の継承、コミュニティの場の重要性、など具体的なプロジェクトをとおして語られる。『ぎふメディアコスモス』、『大三島プロジェクト』、『信毎メディアガーデン』、『水戸市民会館』など。具体的なプロジェクトがあるからこそ、空想ではないリアリティがある。こちらも一般の方にの伊東入門にはお勧めだが、伊東建築の魅力を知るには若干もの足りない印象。

その他おすすめの書籍、5選

01

『建築の大転換 増補版』

文庫という手軽さで、現代思想周辺まで踏みこめるのが、ちくま文庫の『建築の大転換』という著作である。中沢新一と伊東豊雄の対談形式なのだが、新国立競技場のこと、東日本大震災のことからはじまり、自然や建築についての議論が繰り広げられる。中沢節が炸裂しているので、伊東の言葉は若干すくない印象だが、伊東の建築が引き合いに出されることによって、中沢の難解な議論がするりと入ってくる。建築という知的システムが取りこぼしてきた自然なるものを、建築の内部に取り込もうとリアリティをもって考えること。このことは現代に求められている。現代思想が好きな方にお勧め。

02

『にほんの建築家―伊東豊雄・観察記』

文庫という手軽さで、伊東豊雄の人柄を知ることができる。瀧口範子が伊東豊雄を追いかけたドキュメントである。伊東事務所におけるミーティングの雰囲気、伊東と所員との何気ない会話、事務所を立ちあげたときの小話、多木浩二との関係性など、よく調べあげられた伊東の情報が散りばめられた、臨場感あふれるドキュメントとなっている。伊東の人柄や雰囲気を感じたい人にお勧めのの一冊。完成度も高い。

03

『PLOT 05 伊東豊雄』

言わずと知れたGAのシリーズ。この著作では、『多摩美術大学図書館』、『座・高円寺』、『台湾大学社会科学部棟』という3作品がひたすら深堀りされてゆく。設計プロセス、構造、施工、家具、詳細、そして思想など、もう語ることが残されてないほど、徹底的に聞き尽くされる。建築が完成されるまでの過程をここまで詳細に追いかける本は少ないから、貴重である。これらの3作品を徹底的に知りたいひと、あるいは建築が出来るまでの一連のプロセスを知りたい人にお勧め。

04

『伊東豊雄読本―2010』

言わずと知れた読本シリーズ。幾つものプロジェクトを取り上げながら進むロングインタビューによって、幼少期から台中国家歌劇院以降までの思想が明かされてゆく。伊東の思想が生のままに引き出されているため、まとまっているとは言えないが、その代わり、父親との関係やプロジェクトの小噺など、伊東豊雄を愛するひとには、嬉しい仕上がりになっている。こちらはかなり上級者向けなので、いきなり読むのは勧めない。

05

『建築:非線型の出来事―smtからユーロへ』

この本は、伊東豊雄建築設計事務所が編著した『せんだいメディアテーク』だけに絞ったドキュメントである。せんだいメディアテークで考えたことは当然、コンペの要綱の詳細から、地元新聞社の痛烈な批判への応答、市民とのミーティングの様子、チューブの構造解析、家具の配置スタディ、スタッフのユニフォームなど……。プランが決まっていない自由度の高い『せんだい』だからこそ起きうる様々な非線型の出来事が、プルーストの小説のごとくまとめられている。『せんだいメディアテーク』を普段使用している人々にお勧めの一冊。(詳細な解説はこちら↗︎

伊東を育てた書籍、2選

01

『愛の疾走』

三島由紀夫の小説であり、舞台は諏訪湖周辺である。ピカピカに輝く近代的なカメラ工場で働く正木美代という清純な美少女、そして諏訪湖の漁村に住みながら、生活のために働く貧しく素朴な田所修一という青年、二人の距離が諏訪湖を中心に近づいたり離れたりする小説である。伊東豊雄は幼年時代を諏訪で過ごしたこともあり、諏訪での空間感覚が建築の原点にあると考えられる。三島の小説にしては読みやすく、流石に文章も美しいからお勧めである。伊東は主人公に自分を重ね合わせたのかもしれない。

02

『生きられた家』

伊東が、自身の著作のなかで繰り返し引用するのが、多木浩二の『生きられた家』である。1970年代、まだ若かった伊東は、坂本一成とともに多木浩二のアトリエに入り浸っていたという。「活動家のアジトのような安アパートの一室で三人は夜を徹して建築論を語り合った。語り合ったとは言っても多木氏は教師であり、我々二人は学生のような関係であった(『視線とテクスト』)と伊東は述べる。この時間は非常に大切なものであり、伊東の思想をかたちづくっている。多木が提示した問い、すなわち住まうことと建てることが分離された現在において、建築家に可能なことはなにかという問い。この問いに対して、初期の住宅から『せんだいメディアテーク』、そして『みんなの家』や『ぎふメディアコスモス』まで、幾度となく伊東が繰り返したものである。