TOD'S表参道ビル(旧) 伊東豊雄 表参道の建築
設計者は伊東豊雄。伊東は『せんだいメディアテーク』『台中国家歌劇院』『まつもと市民芸術館』『ぎふメディアコスモス』などの作品で知られる世界の第一線で活躍する建築家である。『TOD'S表参道ビル』は、ケヤキ並木のシルエットをファサードとした建築であり、ファサードが構造体となっていることを特徴として2004年に竣工している。現在は、イタリアの高級ブランドである「TOD’S」ではなく、「ケリング」が新本社を構えている。より詳しく見てゆこう。
TOD'S表参道ビルの建築概要ケヤキ並木のシルエットの建築
ケヤキ並木のシルエットの建築
建築の敷地は様々なショップが立ち並ぶ表参道のケヤキ並木である。敷地の形状はL型の難しいもので、表参道に面する正面の間口は10mと狭い。この建築の特徴は、表参道のシンボルであるケヤキを抽象化したシルエットを9本並べて、その間隔を微調整しながら重ね合わせられた建築のファサードである。重要なことは、価値が高い正面ファサードだけではなく、建物の周囲を取り囲むあらゆるファサードがケヤキのシルエットで形成されていることである。
通常ならば、正面の見える部分だけを美しくしてしまうが、あらゆる面を同じシステムで構成することによって、建築が全体としての一つの価値を持つ。あらゆる面を同一のシステムで構成することは、一見すると非効率的に見えるかもしれない。商業的価値のある正面をケヤキのファサードにして、見えないところは壁にすればよいではないか、と考えるのが普通だろう。しかしながら、そうした適材適所主義は危険であることに注意されたい。
一見すると合理的に見える適材適所主義は、御都合主義に陥りやすい。というのは、そもそも建築という全体を部分に切り分けるのはなぜか、という問いに答えることができないからである。要するに、そもそも正面というものをつくるのが望ましいのか、という踏みこんだ質問に答えを与えることはできない。『TOD'S表参道ビル』はこの質問に答えている点で新しい。あらゆる面が正面になりうる、と主張したのである。正面から見ても、横から見ても、裏から見ても、どの面にもケヤキファサードが浮かび上がり、建築全体としての商業的価値を主張している。
構造体としてのファサードとスラブの工夫
「TOD'S」の場合も樹のパターンの斜めのラインがクロスしながら交差するのは、基本的にはブレースのように横力に対して強いから成り立つと言われました。あとは、外側のストラクチャーに対してスラブをどう関わらせるのかが重要なポイントでした。それを新谷さんがうまく解決してくれて、内側で斜めの柱に引っかかっているような、表まで強く出てこないストラクチャーにしてくれました。
伊東豊雄『伊東豊雄の建築2 2002-2014』(強調筆者)
ファサードは表現であると同時に構造体である
ケヤキのファサードのコンクリート壁の厚みは30cmで統一されている。下層階の太い幹部分は陳列棚などに使用されているが、上層階にゆくにつれて空間は明るさを増してゆき、細い枝に取り囲まれたようなオフィスやパーティルームが展開される。この建築の特徴は、ファサードが構造体として機能していることである。建築内部に柱はなく、ケヤキのファサードが建物全体を支える役割を担っている。建物というのは、下階にゆくほど多くの重量を支えなくてはならないから、下階にゆくにつれてコンクリート壁が多くなるケヤキの比喩は合理的でもある。
そもそも、近代建築におけるファサードの位置付けは難しいものであった。コルビュジエの「ドミノシステム」を考えてみると、柱と床で建物の構造は決定され、壁やファサードは後から組み込まれるものであった。コルビュジエは、従来の組積造を主体とした壁構造から、柱と床を主体としたフレーム構造を鉄筋コンクリートへの移行を鮮やかに描いた。一方で、伊東の『TOD'S表参道』は、ファサードと床で建築が完成する可能性を示していた。構造体としての柱の存在は消滅して、ファサードだけが表現を決定づける要素となる。その結果、床部分は柱一つない自由な空間となりながら、ファサードが空間に多様性を与えることが可能になる。
『TOD'S表参道』は、構造体における柱の存在を否定したという点において、そして、構造体としての壁の表現を追求したという点において、建築史的に重要な意義がある。要するに、「ファサード=構造=表現」という新しい図式を発見したのである。しかも、構造体であるファサードに無駄な箇所はなく、ケヤキを模した合理的なシステムで構築されている。この発想は、2002年の『ブルージュ・パヴィリオン』や『サーペンタイン・ギャラリー・パヴィリオン』といった建築を経験した伊東ならではのもので、『MIKIMOTO Ginza2』や『台中国家歌劇院』にまで繋がってゆく。
浮いたようなスラブの表現
ファサードは構造体であると同時に、この建築を決定づける一つの表現となっている。そこで伊東がこだわったのは床スラブとファサードの取り合いである。実際の床スラブは500mmと分厚いのだが、ファサード部分に現われる床スラブは250mmと薄くなっている。難解な話は棚にあげるとして、外から見たときに水平に走る床が薄く見えるように、床の厚みが工夫されていると考えておけばよい。その結果、薄い床が内側に浮かんでいるように見える。もしこの工夫がなければ、樹木のシルエットがここまで引き立つことはなく、分厚い床をファサードが支えているという構図が丸見えになり、この建築の軽やかさは失われるだろう。
伊東は「ファサード=構造=表現」という図式を発見したと先述したが、ファサードが一つの表現であるがゆえに、床とファサードが慎重に分離されている。すなわち、ファサードは床を支えているのだが、ファサードと床は独立しているかのように振る舞うように設計されている。そうしなければ、ファサードの抽象的なケヤキの表現が失われ、ファサードが床を支えていることを明確に主張してしまい、具体的に迫ってくる重苦しいものになってしまう。薄く見える床の工夫によって、構造体であるにもかかわらず構造体のようには見えないファサードという不思議な抽象化が行われている。これが、新しい抽象表現への挑戦だろう。
象嵌されたガラス
抽象的にものを見せるということが重要ですからね。樹というシンボル性をコンクリートで表現した時に、それが内側にガラスがいってしまうと生々しくなるというか、それを一つの面のように見せることによって、美しくもあり抽象的でもあるというものが生まれてくるのではないかと思います。
伊東豊雄『伊東豊雄の建築2 2002-2014』(強調筆者)
この建築の外壁には、約270カ所にランダムな開口部が開けられ、そのうち200カ所がガラス、70カ所にアルミパネルが嵌められている。この建築の特徴は、開口部とコンクリートの取り合いが狭く、8mmシールのみを介してガラスが嵌め込まれているように見えることである。要するに、ガラスとコンクリートが隙間なく象嵌された印象を与えている。8mmという小さな幅のシールを実現するのは困難な仕事であり、新しい挑戦だということを忘れてはならない。なぜなら、地震が発生した時にガラスが割れないように慎重な設計が必要で、高い水準の施工精度や施工技術が要求されるからである。
まず、8mmという幅に抑えるために免震構造が用いられ、地震時にガラスが割れないようになっている。次に施工の精度だが、コンクリートの躯体をつくり上げてからガラスを嵌めこむのだから、数mmずれただけでガラスがうまく嵌まらなくなってしまう可能性がある。この建築の場合、竹中工務店の優秀なチームが担当して、現場には緊張感が張り詰めていたという。そうして完成したコンクリートとガラスが一枚の面を形成したデザインは素晴らしい効果を発揮していて、まるでグラフィックデザインがそのまま立ち上がったような抽象性が立ち現われている。
TOD'S表参道ビルの内と外平面的で仮設的な強いファサード
内と外をただ仕切るだけの仮設的境界
「ファサード=構造=表現」という伊東が発見した図式の面白さをもう少し踏み込んで考察してみたい。伊東は『TOD'S表参道』の建築に対してこのように述べている。
このファサードの面白さはいくつかあって、これで囲い込んでしまったことで、内に入っても、どちらが内か外かわからないようなところがありますね。
伊東豊雄『伊東豊雄の建築2 2002-2014』(強調筆者)
内に入っても、どちらが内か外かわからないとはどういうことか? そして、そのことにファサードが関与するのはなぜか? 2004年の『TOD'S表参道』と同時期に竣工した『まつもと市民芸術館』では、泡のように美しい外壁が内外を仕切っていて、内側から見た壁と外側から見た壁が同じ仕上げであることが重要視された。もし仕上げが違うならば、こちらが内側、こちらが外側、と明確に割り当てられてしまうのだが、伊東の場合、外壁がまるで一枚の仕切りのように空間に置かれて、その両側に偶然に場所が発生するようなイメージが重要視されていることが分かる。
屏風を考えると分かりやすいが、屏風という「仮設的な境界」を置くことで場所が発生するのであり、その逆ではない。屏風は空間をただ仕切るだけであり、内や外という性格を与えるものではないのである。そもそも、日本において場所はつくられるものであった。花見のピクニックシートが分かりやすいが、ピクニックシートを置くというだけで居心地のよい場所が生じる。同様に、屏風を置くだけで場所が生じるのである。こうした「仮設的な空間」は、まず堅固な外壁によって空間を囲いこんで場所をつくり、その内部で様々なことを発生させるような西洋的な空間のあり方とは異なり、自由な空間が展開されることに特徴がある。
西洋の衣服が身体を意識して立体的にでつくられるのに対して、日本の衣服が平面的な布を先に用意して、布を身体にいかに纏わせるかを考えることにも似ている。要するに、内部を囲いこむために外壁がつくられるのではなく、一枚の仮設的な境界を用意すると、両側に内側や外側が事後的に見出されるという空間の考え方なのである。だから、内側と外側の空間の質はほとんど同じとなり、内に入っても、どちらが内か外かわからない印象を与えることができる。『TOD'S表参道』の場合、この仮設的な境界がケヤキファサードとして表現され、ファサードで囲いこむことで内と外が事後的に見出される。
伊東豊雄の簡単な歩み
『TOD'S表参道』が設計された2004年以前の伊東の歩みを見てみよう。1980年代後半の伊東は先述したような空間の仮設性を考えながら、『シルバーハット』『レストランバー・ノマド』『横浜風の塔』などを設計していた。それ以降も考え方はすこしずつ変わるものの、仮設的な境界の両側に事後的に内や外が見出されるという考え方は基本的に変わることはなかったように思われる。1987年の『神田Mビル』において一度コンクリートのファサード表現が提案されるのだが、その際でも即物的な半透明のスクリーンによって仮設的な境界を設計することが目指されていて、1990年代は、『中目黒Tビル』『南青山Fビル』『松山ITMビル』など、半透明フィルムのガラススクリーンによって仮設的な境界が目指されていた。
仮設的で、それでいて自立するファサード
仮設的な境界をつくるという伊東のコンセプトは、『TOD'S表参道』にも引き継がれている。つまり、ファサードを先に用意して、それをに纏わせただけの「ファサードの着付け作業」のような設計手法で設計されている。ファサードは軽やかに空間を仕切るばかりで、それ以上のものであってはならない。この際に重要になるのが、ファサードをいかに設計するかということである。推測するならば、1987年の『神田Mビル』において、三角形のコンクリートフレームで建築をぐるりと取り囲んだ伊東は、コンクリートフレームの凹凸が建築の内外を強く意識させてしまうことに気がついた。
つまり、コンクリートの骨太な凹凸は、仮設的な境界とは程遠い強さを持ってしまう。本当に表現したいものは、ただ布を纏うだけの裏地のない単衣、ただ空間を仕切るだけの裏表のない屏風、あるいは花見の宴の際に用いる花見幕といった仮設的なものであるから、平面的なファサードでなくてはならない。こうして、今度は「透明な表皮」のようなものを考えはじめた。1990年代のガラススクリーンの一連の作品は、ガラスによって軽やかで透明な表皮をつくることで、仮設的な境界に挑戦していた。ただ、そうした透明なガラスでさえも、内外を鋭く分離してしまうことに伊東は気がつくのである。実の透明性と虚の透明性は別物なのである。
ショーウィンドウが商品と人間の距離を遠ざけるように、サランラップが食品と人間の距離を遠ざけるように、たとえ視覚的に透明であったとしても、その透明な表皮は内と外を強く隔ててしまう。単衣、屏風、花見幕のように、軽やかで柔らかく空間を仕切るだけのものを表現するためには透明な表皮では不十分である。サランラップほど内外を強く意識させるものはない。なぜガラスやサランラップは強いのか? その理由は、サランラップやガラスはそれ自体で自立することなく、別の対象に支えられることを前提としているからである。
支えられるということは、そこに主従関係が生じることを意味する。サランラップに巻かれたおにぎりは、おにぎりそれ自体よりも強く存在してしまう。なぜなら、サランラップに頼られているからである。サランラップはそれ自体では成立せず、おにぎりに頼らなければ自分の存在をアピールできないのである。結果としておにぎりは主人として存在を歌う。伊東が目指していたのは、そうした内外の主従関係を解体することなのだから、サランラップのように何かに頼らなくては自立できないものは、結果的に内側をつくってしまう点で相応しくない。結局のところ、サランラップやガラスは内側のためのものなのである。
サランラップではないけれども、透明な表皮をつくろうとするほど、内と外が隔てられてしまうという矛盾を九〇年代からずっと感じていたのです。今やろうとしていることは、透明でないサーフェイスによって、逆に、内、外の境界を超えることができるのではないか。
伊東豊雄「身体」(強調筆者)
『私たちが住みたい都市』所収
ここで新しく求められるのは、仮設的で軽快ながらも自立する「強い」ファサードである。屏風はそれ自体で何にも頼ることなく立っていて、だからこそ仮設的な境界として機能していたのである。2002年の『ブルージュ・パヴィリオン』と『サーペンタイン・ギャラリー・パヴィリオン』で表皮を構造体で表現する可能性を掴んだ伊東は、「ファサード=構造=表現」という可能性を追求することで、より自然に仮設的な境界をつくることが可能だと感じたのだろう。ファサードと構造を組み合わせることで、従来とは異なる強いファサードが表現されたのである。このファサードは構造そのものなのだから、自立することができる。すなわち、強いからこそ仮設的なのである。
平面的な、あまりに平面的な
従来とは異なる強さを持った自立したファサード。それでいて仮設的で境界にそっと置かれたような軽快なファサード。これを表現するために、床が浮かんだような取り合いが考えられ、ファサードと床が切り離されて見えるようになっている。また、『TOD'S表参道』のファサードがあまりに平面的であるのは、仮設的な境界を演出するためである。1987年の『神田Mビル』ではコンクリートのフレームが強すぎて、骨太さが目立っていた。コンクリートフレームの凹凸が建築の内外を強く意識させてしまうのである。
『TOD'S表参道』の場合、コンクリートのケヤキの構造体の両面にガラスが入れられて、平面がピタリと揃えられている。内側も外側もガラスが嵌めこまれてまるで一枚の紙のようである。また、ガラスとコンクリートはサッシュレスで8mmという小さい幅に抑えられているから、ほとんど一繋がりで違和感を感じさせない。コンクリートとガラスという物質的なものは、仮設的な境界として抽象化されているのである。この軽快さこそが、伊東の独特な表現だと考えれられる。ぜひ、周囲の商業ビルと見比べてみて欲しい。その気品溢れる佇まいに驚くことだろう。
TOD'S表参道ビルを訪れた感想建築が街のケヤキ並木と共犯関係を結ぶこと
この建築を訪れて感じたのは、「ケヤキ並木」というキーワードを引っ張ってくる手際のよさである。商業建築の場合、ブランドのイメージを象徴する建築がつくられるはずだが、ケヤキというのはブランドとまるで関係ない表象であり、目の前の表参道から持ってきただけだろう。建築を設計する際のコンセプトに、ブランドのアイコンではなく、街のアイコンが使われているのは異例かもしれない。ブランドは廃れるかもしれないが、ケヤキ並木が失われることはないだろう。こうした意味で、この建築はで長く使われゆく気がする。名建築は、たとえ商業ビルであっても街を意識してつくられるのだろう。最後に訪れた感触を言葉にして添えておこう。
夜のファサードは愛に溺れる― 街と共犯関係を結ぶ建築
夜、空にある星が一つ欲しくなって、上を向きながら表参道を歩いているのだが、立ち並ぶ商業ビルの光が明るすぎるから、星は輝くのをやめて泣いてしまったようである。泣いた星が落とした涙が、ケヤキ並木をそうっと伝って流れてきたから、その涙を受け止めなくてはならないと、手で掬おうと必死になるが、指の隙間をするりと通り抜けて、ケヤキの根元に吸いこまれていくものだから、悲しさあまって僕も泣いてしまった。目に浮かんだ涙の粒に、都市を走るタクシーの光が映りこんで、メリーゴーランドのような幻影を落としている。商業都市の夜は、涙のなかで幻想的に輝いている。
道路の反対側を向くと、道路の向こう側にケヤキ並木のシルエットが浮かび上がっている。緑の色彩を主張していた昼間とは異なり、彩度は落とされて、障子に映る影のように、幹と枝は形態を主張するばかりで、抽象化されている。彩度を落とした一本のケヤキの樹木は、背後に広がる建築表面のケヤキシルエットと重なり合って、一つの魅惑的な風景を奏でている。色彩を失った現実の樹木と、抽象化されたファサードの樹木、両者が重なり合いながら奏でる風景は美しい。人工の光を浴びた自然の樹木と、建築を支える自然を模した人工の樹木、二本の樹木は若い男と女のごとく、涙がこぼれる悲しい夜に、抱きしめあって一つになる。
現実としての樹木は影として生き、虚構としてのファサードは影として生き、光としての僕に照らされている。昼間に訪れたとき、正面ファサードのガラスの横幅が大きすぎる気がしていたが、なるほど、夜が近づくにつれて、前面に枝を伸ばすケヤキの樹木が、樹木を模したケヤキのファサードのなかに紛れこんで、正面ファサードの中央に一本の樹木が現象する。夜になると、ファサードの正面に一本の樹木が貸出され、昼になると、ファサードの樹木は街に返却される。夜のケヤキファサードには一本の本当のケヤキの樹木が隠れている、おもちゃ屋の夜に本当の子供が紛れこむように。
ファサードは街と性交をしている。太陽が色彩を与える昼、人工の自然という仮面をかぶって街に冷淡な態度をとっていたファサードは、太陽が眠りについた夜、暗闇のなかで街を抱きしめて甘い顔を見せる。そのとき、一本の樹木が、その一本の樹木だけがファサードのなかで艶やかな声をあげ、欲望のままに優しく包まれる。恥ずかしくなった僕は、道路を横切る歩道橋のうえに急いで、ファサードたちの甘い風景を覗き見していた。空にある星なんていらなくなった。商業都市のイルミネーションがいつまでも続くなら、もっと、もっと、星は泣き続ければいい。涙降る夜、悲しみは美しく輝いている。
季山時代
2023.04.19
TOD'S表参道ビルの建築写真
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