座・高円寺の外観写真

座・高円寺 伊東豊雄 高円寺の建築

設計者は伊東豊雄。伊東は『せんだいメディアテーク』『台中国家歌劇院』『まつもと市民芸術館』『TOD’S表参道ビル』『ぎふメディアコスモス』などの作品で知られる世界の第一線で活躍する建築家である。『座・高円寺』は、舞台芸術の創造と発信、そして地域に根ざした杉並区の文化活動の拠点であり、小劇場・区民ホール・阿波おどりホールという3つのホールが内包され、2008年に竣工している。なんと言っても、その閉じたテント小屋のような劇場は他に類を見ない。より細かく追いかけてゆこう。

解説

座・高円寺の建築概要芝居小屋のような仮設的象徴性

縦に積まれたホールの構成

この建築は、約300席のホールが2つ、阿波踊りの練習の場所となる「阿波おどりホール」が1つ、そして、その他の稽古場などから構成されている。2つの約300席のホールは、正方形平面で専門的な仕様を持つ「座・高円寺1」が地上階に、より扱いやすい市民仕様の「座・高円寺2」が地下に埋められて、2つのホールが縦積みになっていることが特徴である。プロ用とアマチュア用で分かれているのは、プロでもアマでも使える中途半端な多目的ホールを2つ設計するよりも、機能を明確に分ける方が使いやすいという伊東の配慮である。

そもそも、ホールを縦に積むということはタブー視されている。なぜなら、ホールの音響問題が懸念されるからである。ここでは、永田音響設計の協力のもと、床・壁・天井をすべて躯体から絶縁する浮き床構造を採用することで音響面が解決されている。伊東の案はコンペティションで選ばれたのだが、他のファイナリストの案は地上に2つのホールを切り離して配置したものだったというから、この建築の斬新さがよく分かる。ホールを縦積みする構成によって、まわり階段をぐるぐると降りてゆくという垂直な動線が生まれ、官能的な体験が実現されている。

座・高円寺の建築構成
座・高円寺の建築構成 @Architecture Museum1階にはメインのホールである「座・高円寺1」があり、地上の道路とフラットにつながっている。1階を段差なく地面からつなげることは、芝居小屋のような建築にするための工夫である。地上部分には柔らかい屋根がかけられ、建築の約3分の2が地下に埋めこまれている。

敢えて閉じる建築、芝居小屋のような象徴性

我々はここに劇場を設計するにあたり、建築内部で行われている芝居のもつ世界と、混沌としたとりとめのない日常との境界を明確にひくことで、場所に特別な強さを与えようと考えた。そこで、地上に現れる部分を鉄板とコンクリートからなる幕によって覆い、周辺の都市的状況に対してあえて閉じ、「芝居小屋」としての象徴性をだそうとした

伊東豊雄『PLOT 05 伊東豊雄』(強調筆者)

敢えて閉じるという公共建築

基本的に公共建築というのは、利用者が気軽に入りやすいよう街に開くことを前提に設計される。しかしながら、道路に囲まれているという敷地条件、また内部で何が起きているか分からない怪しげな雰囲気から新しいものが生まれるという確信から、「あえて閉じる」というコンセプトが生まれ、一つの象徴として「芝居小屋」の比喩がもち出された。薄暗いテントのなかで演劇が行われるのだが、テントというのは一つの軽い薄膜に過ぎず、まくってしまえば芝居空間に直結している。サーカスのテントを想像すると分かりやすいが、軽やかな仮設的な幕によって仕切られているだけだが、象徴性がないわけではなく、ただ開放されただけの空間より親しみやすい。こうした仮設的象徴性とも言えるものが意図されたのだろう。

芝居小屋と黒テント

芝居小屋の比喩は、黒色テントによる旅公演を行った「劇団黒テント」が意識されていたという。黒テントを立ち上げた佐藤信は、唐十郎や寺山修司らと同様に、1960年代後半のアングラ演劇の旗手として知られている。『座・高円寺』の芸術監督を務めるは佐藤信その人であり、佐藤が審査員から関わっていたこともあって「芝居小屋」という比喩がうまく伝達された。

そもそも、小屋の建築史的な意義を考えると、ロジェの『始原の小屋』という挿絵が有名であり、柱と梁などの構造的に合理的なものだけで構成された骨としての小屋が賛美された時代があった。しかし、「芝居小屋」という比喩の面白さは、黒テントのイメージもあり、構造合理性というよりもむしろ、一枚の幕のような軽やかさが想起されることである。骨のとしての小屋よりも、皮膚としての小屋なのである。なんにせよ「芝居小屋」という絶妙に曖昧な言葉を持ってくる手際の良さが素晴らしい。芝居小屋という言葉の力だけで、構造的な合理性では語り尽くせない魅惑的な空間の質を共有することができ、関わる人をワクワクさせる。

2階のカフェ部分
2階のカフェ部分 @Architecture Museum無数の穴から光が照らしている。天井にも壁にも同じように穴が開けられているから、天井と壁が一繋がりの面のように見える。その結果、芝居小屋の幕のなかにいるかのような印象となる。

座・高円寺の柔らかい屋根幕のような屋根はいかに設計されたか

芝居小屋の先にある何かを求めて

芝居小屋のような建築のために、1階にはメインとなる1つの劇場だけが入れられ、道路と段差なく同じ高さで繋がることが意識されたのだが、なんといってもフワリとかけられた柔らかい屋根こそが、この建築を芝居小屋らしく見せている。ただし、伊東は過去の芝居小屋を再現してノスタルジィに身を浸らせたいわけではない。そうではなくて、芝居小屋という誰にでも分かりやすいイメージからはじめて、芝居小屋のイメージを現代の技術をもって抽象化してゆく過程を経ながら、その先に出てくるはずの新しい何かを期待しているのである。

『TOD'S表参道』の時もそうであったが、単にケヤキを模倣するのではなく、ケヤキというイメージから初めて、それを抽象化するなかで成立する「新しいリアル」が期待されていた。それはケヤキというイメージを超越した新しい何かなのであり、いわば自然の模倣でなく、自然の創造である。だから、芝居小屋のような建築が目指されたからといって、実際に膜構造の屋根を使うわけではないし、実際にできた建築が芝居小屋に見えるとは限らない。こうしたイメージの抽象化にこそ伊東の空間の魅力がある。さて、『座・高円寺』において抽象化されたのは、芝居小屋の軽やかな屋根であるのだが、フワリと架けられた柔らかい屋根は実際に幕でできてるわけではなく、コンクリートと鉄板という重い素材でできている。では、こんなに軽く見えるのなぜだろうか? 屋根には驚くべきほどの手間と技術が隠されている。

幕のように軽くみえる屋根
幕のように軽くみえる屋根 @Architecture Museum緩やかなカーブを描きながら、流れてゆく屋根は薄い皮膜でできているように見える。その効果からか、屋根だけではなく壁も薄い皮膜でできているように感じてしまう。

屋根に隠されたルール

この重力によってくぼんだカテナリー曲線のような屋根を実現する為に、展開可能な二次曲面を考えた。これらは、一定の曲率なので、鉄板の局面加工をする際に容易と考えた為である。例えば円柱のように、展開すると平面になる幾何学形態を用い、キューブからえぐり取るようにする。これを繰り返し、最終的にはホールを中心として、屋根を七つの円柱、円錐で構成した。それらの幾何学による交線は大きな「波」同士がぶつかる時に生じる稜線のように予測不可能な方向へ曲がる。こうして、たった七つの曲率の面だけでダイナミックに波打つような屋根が生まれた。

伊東豊雄『PLOT 05 伊東豊雄』(強調筆者)

意匠の工夫

上記の引用にすべてが要約されている。屋根が軽く見えること、そんな些細なことを実現するために、意匠・構造・施工などの驚くべき努力の組み合わせがなされている。意匠としては、7つの円錐や円柱という分かりやすい図形によってによってキューブをえぐっている。四角い豆腐をスプーンで7回ほどすくいとったようなイメージで、そのスプーンを円柱の一部を切り取ったような単純なものとする提案である。何がすごいかというと、屋根の稜線を決めることから設計をはじめるのではなく、スプーンで掬いとった後にに稜線が事後的に出現するということである。だから、稜線は単純な直線を描かず、波と波がぶつかり合ったような様相を呈する。一見すると無秩序に見える屋根の裏には、単純な形でえぐるというルールが隠されていて、だからこそ自然の波のような美しく自然な屋根が浮かびあがっている。もしルールがなかったならば無秩序な汚い屋根となってしまうだろう。

座・高円寺の屋根を上から見る
屋根を上から見る @Architecture Museum『PLOT 05 伊東豊雄』p146の屋根伏図を参考に作成。これだけでは分かりにくと思うが、稜線が単純な直線になっていないのがわかる。波同士がぶつかり合うような稜線が事後的に出現している。芝居小屋のテントのような屋根を追求していたら、波のようなものに出会うということが面白い。
座・高円寺の建築模型
座・高円寺の建築模型 @Architecture Museum

構造の工夫

こうした隠されたルールによってはじめて構造解析が可能になる。無秩序に設計されたテントの構造解析は困難であり、円柱や円錐で抉るというルールによってはじめて座標が特定できる。最終的には、壁は鉄骨梁と鉄骨柱を内包したコンクリートで構成され、屋根はFBのリブによって強化された鋼板コンクリートで構成され、ホールの上部は稜線に沿った山形トラスが載せられるという構造となったのだが、面白いのは、通常の逆のプロセスで構造が考えられていることである。

一般的に考えると、柱や梁のフレームを決定してから外皮という幕を架けるのだが、この建築の場合、芝居小屋の幕というイメージが先行したために、外皮のために柱や梁が決定されている。外皮のために柱と梁が決定されるとは奇妙な反転である。喩えるならば、女性に洋服を着せるのではなく、洋服のために女性を用意するようなものである。そして、滑らかで美しい洋服を実現するために、女性に無理をさせることもあるし、女性を矯正することもある。

この方法は、女性に無理をさせているという点において、『TOD'S表参道』や『MIKIMOTO Ginza 2』のような構造的合理性にしたがっているとは言えない。しかしながら、外皮を先取りして構造を決定するという在り方、すなわち、美しい洋服の見え方に執着するという無理をしながらも、構造解析可能なルールを設定して安全な建物を設計できたという技術や奮闘が評価されるべきである。構造合理性だけが、建築のすべてではない。結果として、柱と梁からなる構造となっているが、だからこそ丸窓の開け方は自由となり、芝居小屋の幕に穴のような軽さが実現されている。

屋根と壁の境界
屋根と壁の境界 @Architecture Museum屋根と壁のどちらにも同じような丸い穴が穿てられ、その結果、一繋がりの幕のように見える。壁の丸穴は、壁内部のブレースを避けるように配置されている。

施工の工夫

屋根の施工は、芝居小屋の幕が意識されたために通常ではない方法が取られている。通常ならば、鉄板を下部に敷いて、その上部にコンクリートを流しこむのだが、その方法では、屋根の外側がコンクリートとなり、美しいエッジや軽さが失われてしまう。そこで、美しい外皮の表情を優先した結果として、外側が鉄板で内側がコンクリートという反転した配置となった。この反転が施工の難易度を格段にあげる。通常の方法の場合、敷かれた鉄板の上にコンクリートを流しこむだけでよいが、反転した場合、コンクリートをどう流しこむかという問題が発生するからである。

この建築では、屋根の下部にもう一枚薄い鉄板の型枠をつくり、上部の鉄板に穴を開けて高流動コンクリートを流しこみ、流し込んだ後に上部の穴を塞ぐという面倒な方法が取られている。またコンクリートの流しこみ方だけではなく、円錐形の鉄板の歪みの修正など、難しい曲面を精度よく施工するために、職人の手作業が尽くされている。女性が美しい洋服を纏うためには、何人もの裏方の努力が必要とされるのであり、この努力があるからこそ完成時に屋根は美しく羽ばたく。

幕のような軽い屋根
幕のような軽い屋根 @Architecture Museum施工過程を考えると、軽い屋根が架けられたとはとても言えず、重い屋根をどう支えるかの闘いだったように見える。安全を考えて、コンクリートが硬化するまでサポート受けを残しておいたというから、現場の緊張感がうかがえる。そうした軽く見える幕の探求の末に完成した屋根は、その重量を脱ぎ捨てて、驚くほど軽く見えている。
感想

座・高円寺を訪れた感想覗き穴のある建築の快

覗き穴のような丸穴

この建築に訪れて感じたのは、見つけてしまったという印象である。入るのには少しばかり勇気がいるが、入ると魅惑的な空間が襲いかかってくる。この不思議な印象はどこからくるのだろうか? この絶妙な快の由来はどこにあるのか? 伊東はこのように語っている。

つまり、テント小屋のような窓のないモノで覆われている状態です。小さい頃に、サーカス小屋へ行った時のイメージが強いんです。親がなかなか連れて行ってくれないから、テントの下端を捲って内部をコッソリ覗いていました(笑)。

伊東豊雄『PLOT 05 伊東豊雄』(強調筆者)

コッソリ覗くこと。ありのままの裸の状態を見せるのではなく、閉じられた箱を覗きこむということ。この体験は、壁にポツポツと穿てられた丸穴に表現されている。絶妙に調整された丸穴の直径と密度感は、都市を流れてゆく人々を覗き魔に仕立て上げる。大きすぎると見えてしまう、透明すぎると見えてしまう。ただ見えそうで見えない閉じた箱が高円寺に立ち現われた。その覗きの気配は、中央線に乗って建築を上から見下ろした時にさえ感じてしまう。屋根に開けられた丸穴から内部が見えそうで、それでいて見えない不思議な箱が置かれている。電車に乗って建築が視界にはいるだけで、われわれ覗き魔の共犯者になる。

現代社会の都市において、われわれは常に覗かれる側に立っている。グールグルから常に監視され、マイナンバーで紐づけられ、SNSで日常は覗かれている。覗かれているわれわれは、覗くという欲動を抑圧されていて、覗く時には罪悪感を覚えるように教育される。しかしながら、われわれの本性、心の奥底に潜んでいるのは覗き魔である。内部が見えそうで見えない箱、そんな箱を一度見つけてしまったら最後、心はざわめき、頭から離れなくなってしまう。忘れようとしても、箱の中身が気になって仕方がない。中身はなにか想像して、想像するうちに中身はますます膨らんでゆき、頭から離れなくなってしまう。ああ、気になる、気になる。そうなったら、箱男になるくらいしか道は残されていない。箱をかぶって都市にくりだし、覗きを行なう箱男になるしかない。

覗きは都市で抑圧されている

覗かれることは容易であるが、覗くことは難しい。そもそも、覗きは都市から締め出された行為だからである。都市は、あらゆる構成員が覗かれる状態をつくろうとする力のなかで成立している。全員が仲良く覗かれることに落ち着くのが都市である。だから、覗く側は嫌悪される。たとえば、都市のなかでカメラのファインダーを向けると嫌悪の目に晒される。ああ、厭らしい、私だって覗くのを我慢しているのだから、あなたも我慢しなさいよ、覗いているくらいなら、すべてを曝け出しなさい。すべてを曝け出してしまって、正直に生きることが美徳なのよ。窃視症になるくらいなら、露出症になりなさい。露出症なら理解できるわ。でも窃視症は許せない、陰険な感じがするわ、すぐに通報して監獄に放りこみましょう、ねぇ、そうでしょ? 君もこっち側よね? こうした圧力によって、都市の構成員は窃視症から露出症に転向するしかない

情報空間も都市のようなもので露出症にあふれている。見て、私を見て、という振る舞いが氾濫している。建築も露出症的傾向の影響下にあり、露出症的な建築があらゆる場所を占拠している。とりわけ、公共建築は透明なガラス張りで自身を露出して、見て、見て、ちゃんとやってるよ、と公共性を誇示してくる。都市では、開かれた透明な建築ばかりが乱立して、露出症的傾向が蔓延している。しかしながら、露出されたものはどうも面白くない。われわれの窃視欲動が満たされることはないからである。窃視は秘密裏に行われなくてはならない。われわれは、相手に気づかれることなくしてコッソリ覗きたいのであり、露出症の裸に興奮することはできない。

都市を歩く人々は、覗きたいという欲動を抑圧されたまま、露出狂を演じなくてはならない。本当は、コッソリと覗いていたいが、都市では叶うことはない。仕方がないから露出狂に転向して、私を見て、私を見て、とアピールを続けるしかない。露出症は窃視症の裏返しだと有名な精神分析家が述べていたが、ガラス張りの公共建築は窃視症の裏返しなのである。本当は閉じてコッソリ覗きたいのだが、都市でそれが叶わないために、露出する道を選択して快を得るしかない。私が見たいという快が先にあるのだが、都市ではそれが反転して、私を見てという快になる。本当は匿名のままにコッソリ覗いていたいだけ、ただそれだけなのに。

一次的マゾヒズムなど知らないが、少なくとも窃視が心臓を強く打たせることは確かであり、デュシャンの覗き穴が鑑賞者を惹きつけて離さないことは知っている。都市において、人々は覗くことに飢えている。露出狂に転向して満足できる人は都市に適合できるのだが、露出で満足できない人が一定数いる。「なぜぼくはこうも覗くことに固執するのだろう。臆病すぎるせいだろうか、それとも、好奇心が強すぎるせいだろうか」と悩んでしまう窃視症の人が存在する。都市は露出を強いるために、窃視症から露出症へ転向できない人の居場所は都市にはなかった。少なくとも公共建築ではあり得なかった。しかし、もし覗きを肯定してくれる公共建築があるならば、そんな人々にも居場所が与えられるはずである。われわれは、露出ばかりの都市のなかで窃視の可能性を待望していて、『座・高円寺』はその期待に見事に答えたのである。

露出症的な建築と窃視症的な建築

開かれた建築と閉じた建築、この対比は建築の状態を表しているだけである。だから、開かれた建築がよいとか、閉じた建築がよい、という議論は物理的な形態に結びついてしまう。しかしながら、これらの状態は胸の高鳴り、建築の高揚感を欠いていた指標であるから端的に無意味である。開いていたって、閉じてたって、いくら状態の話をしても意味がなくて、本当に重要なのは、そこに建築の快が感じられるかどうかである。そこで、露出症的な建築と窃視症的な建築と分類してみることを提案してみたい。これらは解釈を含んだ主観的なもので、建築の高揚感、あるいは建築の快楽を考える際の指標になる。要するに、『座・高円寺』は閉じた建築なのではなく、窃視症的な建築だということであり、訪れる人を覗き魔に仕立て上げることで、高揚感や快を与えている。

『座・高円寺』を訪れて感じたのは、露出狂的な建築が都市を埋め尽くす圧力のなかで、窃視症的な建築を実現したという素晴らしさである。それは、閉じた建築を設計したからよいという単純なものではなく、閉じていながら、抑圧された覗き見の快をうながしていて、だからこそ『座・高円寺』の成功につながったのではないか。芝居小屋という形態の比喩ではなく、テントの下端を捲って内部をコッソリ覗くという伊東の体験が、その窃視欲動が再現されていることに共感を覚える。覗きの感覚を提供するのに重要になってくるのは、丸穴の大きさや密度感である。大きすぎず、見えすぎず、多すぎす、丸穴が眼差しの気配を提供するギリギリのラインが求められる。もし覗いている感を提供することができたなら、窃視欲動が満たされて建築の快が得られる。

見ることの愛と見られることの憎悪

『座・高円寺』は閉ざされた空間と丸穴の印象によって窃視欲動を満たして、露出症的な都市に馴染めない人にも居心地のよい場所を提供した点で評価されるべきである。安部公房の『箱男』には、「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」という記述がある(新潮-p36)。なるほど、見ることは愛であり、この建築の中に何が入っているのだろうと考えることが愛に繋がってゆく。もし、市民に開かれた明るい公共建築が設計されていたならば、中にいる人々は外から見られることで、外の人に憎悪を感じてしまうかもしれない。見られることへの憎悪は新しい分断を生じさせる。

明るい公共建築は、露出症に転向した人々にとっては快楽かもしれないが、窃視症に踏みとどまった人々にとって苦痛である。そのうえ、その明るい透明性とは裏腹に、見る見られるの関係を強制することによって、市民を分断してしまう危険性すらある。見る側と見られる側の階層をつくるのである。この危険性は、開かれた建築/閉じた建築という単純な対比からは捉えられない。そこで、露出症的な建築/窃視症的な建築というキーワードから整理することが必要なのである。窃視症に寄り添った建築は、見ることを誘発して愛をうながして、利用者によりよく使われる可能性を備ている。『座・高円寺』は誰もを平等に覗き魔として扱うのである。見逃してはならないのは、閉じている建築と窃視症的な建築は別物であるということ。後者は、閉じているという状態だけではなく、そこに「眼差しの気配」を感じさせる工夫が隠されているのである。

窃視症と露出症の反転

一つだけ注意したいのは、露出症と窃視症は簡単に反転してしまうということ。まるで、愛が一瞬にして憎しみに変わるように。こういう状況を考えてみよう。覗き魔がある人をコッソリと覗いている、その時、その人が不意に振り返りこちらを見つめる。覗き魔は、メデゥーサに見つめられたかのように石になり、一瞬にして丸裸にされてしまう。その瞬間から、窃視症から露出症に転向を強いられる。この転向はトラウマになるかもしれないから、この危険性を避けるべく、覗き穴は慎重に設計されなくてはならない。眼差しの設計に注意しないと痛い目に会うのだ。箱男では覗き穴に艶消しビニールが貼られ、『座・高円寺』では丸窓に乳白のフィルムが貼られ、両者とも配慮を忘れていない。だから、安心して覗き魔になれるのである。長くなったが、公共建築が窃視症に寄り添う可能性を切り拓いたことが『座・高円寺』の新鮮さなのだろう。最後に訪れた感触を言葉にして添えておこう。

クリノリンのような建築― 皮膜によって生じる無駄な空間の官能性

小雨のなかで、新宿から高円寺へ向かうと、レムコールハースの『ボルドーの住宅』を感じさせる小さな丸窓が群れていた。チョコレート色の外観はのっぺりと平面的で、重要な何かを隠しているという印象である。かじられたビターチョコレートのようだという人もいるが、昆虫に食われた葉っぱ、あるいは、薄くスライスされた穴あきチーズのようでもある。どんな比喩を引っ張ってきたとしても、外皮が薄いということは誰の目にも明らかなのだろう。この閉ざされた建築は劇場にしては入りづらく、入ってよいのか不安を覚えてしまうのだが、それでも、この茶色い箱に何が入っているのかと気になって仕方がないから、「座・高円寺、一般人、入ってよい」などとインターネットで検索して入ることになる。もちろん、入ってよいのだが、こんなに入りづらい公共建築が他にあるだろうか。

この入りにくさは、閉ざされた外観の影響はもちろんのこと、搬入口とメインエントランスが近すぎることにも関係しているのだろう。要するに、裏口から入るような奇妙さを感じるのである。搬入口が正面を向いているのは普通ではなく、搬入をしている人々の姿が正面に丸見えだから、まるで倉庫管理の業者に就職してしまったのかと錯覚する始末である。ありのままで素朴な建築だと言い換えることもできるが、都市の歓迎サーヴィスに慣らされた身からすると、もっと丁寧に扱って欲しいと物足りなさを感じてしまう。もっとかまって欲しいのである。誰にも見向きもされないままに、勇気を出してエントランスへ入場すると、道路とメインロビーが同じレベルだからだろうか、都市から地続きでつながっているような印象を受ける。公園のようでさえある。

内部空間は、ポツポツと開けられた丸窓から光が流れこみ、のっぺりとした外観からは想像もつかないほどの魅惑的な空間が広がっている。コルビュジエの『ロンシャンの礼拝堂』や『ラトゥーレット修道院』と同じような官能性を感じるのだが、荒々しいブルータスを押し付けるのではなく、上品で美しく、それでいて懐かしさを喚起させる。床に落ちているのは影なのか、それとも影の模様が付けられているだけなのか。明らかに過剰な丸窓の群れは、一歩間違えると集合体恐怖症を呼び起こす危険なものだが、設計者の絶妙な手腕によって、ギリギリのところで踏みとどまっている。多分、右側のホールの壁が固く閉ざされていることが重要で、ホール部分の壁の内側に意識を向けさせられるから、過剰な丸窓の群れが気にならないのだろう、まるでカフカの小説のように。ホール前存在は、ホール以外の過剰さに気がつかない。

奥に向かうと官能的な階段が待ち受けている。階段を登ったり降りたりすると、他では味わえない高揚感を得るこができる。何階か分からなくなり、眩暈のなかで感覚が麻痺するのだ。同じ大きさの丸照明と丸窓が、壁や天井や階段のすべてを覆い尽くして、その区分を溶かしてしまっているから、日常を支配している尺度、あるいはラングが滑らかに蕩けて機能を放棄する。ここはどこ、わたしはだれ、中心にむかっているのか、それとも逃走しているのか、溺れながら泳ぐことを強いられている。地下まで降りると、赤すぎる唇のような椅子が接吻を待っている。

階段をのぼると、ようやくテントのような構造が明らかになる。まるで、軽い幕に覆われたような空間が美しく、アンリ・ファーヴルというカフェが入っている。藤江和子の手掛けた壁面の棚板は馴染んでいるし、コルビュジエの住宅を彷彿とさせる貼り出した廊下も鮮やかだし、洗練された絵本のラインナップも文句なしで、驚くほどの居心地がよい。ファーブル昆虫記は読んだことはないが、ダリがファーブル昆虫記を引用しながらカマキリについて語ったことを連想した。確か、カマキリの雌が性行為のあとに雄を食い散らかすように、攻撃的な母性があらゆるものを呑み込む世界観が提示されたのだが、カマキリの雌のお腹のなかは『座・高円寺』の空間のようなものではないかと直感した。無数の穴の開いた子宮?

さて、この建築は「あえて閉じる」という選択をしたと述べられているが、実は入れ子構造であり、本当に閉じているのは外皮ではなくホール部分である。それゆえ、外皮とホールの隙間に無駄な空間が生まれていて、この無駄な空間こそが自由で魅力的である。この点において、『千ヶ滝の山荘』や『無用のカプセルの家』などの伊東の初期の住宅を思い出させるのだが、そうして生じる無駄な空間の在り方は洋服のようでさえある。身体と身体を纏う皮膜、その隙間には無駄な空間が生まれる。たとえばスカートのなかの不思議な場所、クリノリンのような膨らみ(∗1)

そういえば、伊東の建築作品の変遷はコルセットの歴史の変遷に似ているのかもしれない。ヨーロッパでは、美しいシルエットやヴォリューム感を出すためにペチコートを何十枚も重ねていた時代があったのだが、一八五六年に登場した鉄製のクリノリンが開発され、単にボリューム感を出すためだけの皮膜が構造的に自立した。構造が先にあるのではなく、皮膜のために構造が付けられたという意味において、『座・高円寺』の設計の手順に類似している。クリノリンは、多くの風刺画に描かれたように機能性とは程遠い無駄なものであり、その膨らみからエスコートすらままらないものであり、また暖炉の火がついて火だるまになる女性も多かったという。

ヴォリューム感を出すためだけに、皮膜に構造を与えて自立させるという限りない無駄。重要なのは、そこまでしてスカートを膨らまそうと人々を駆り立てる情熱であり、外皮の設計に異常なほどの情熱が注がれているのは『座・高円寺』も同様である。しかしながら、なぜこんなにも膨らませなくてはいけないのか。人々を駆りたてるものはなにか。多分、エロティシズムの領域であり、スカートと身体の隙間、その無駄な空間にこそエロティシズムの物語が紡がれる。スカートの中の劇場へ潜りこむ、あの一瞬の甘い匂いを求めて。ここに、山地が指摘したような窃視症的な建築の比喩の秀逸さを感じとることができる。身体のラインを強調する露出症的な建築には感じられないエロティシズムが、この建築に確かに存在している。

季山時代
2023.04.26

(∗1) クリノリンと皮膜

一八五六年に鋼を用いたフープ型のクリノリンが登場したことが転機となるは、産業革命と結びついて大量生産されたからである。興味深いのはクリノリンと傘の製造工程が同じだとする研究である。いささか唐突だが、水晶宮の建築史的意義を再考するならば、エッフェル塔などとの関連において構造的合理性ばかりが賛美されがちだが、そうではなく、ガラスという皮膜が先にあり、その皮膜に構造を与えたものが水晶宮だと見方もできるかもしれない。構造的合理性は、皮膜の後に見出されてきたものではないか。

写真

座・高円寺の建築写真

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座・高円寺の建築の外観
座・高円寺の外観 @Architecture Museum
床が特徴的なメインロビー
床が特徴的なメインロビー @Architecture Museum
丸く小さな階段照明
丸く小さな階段照明 @Architecture Museum
座・高円寺の美しい階段の見上げ
美しい階段の見上げ @Architecture Museum
座・高円寺の階段から地下を覗く
階段から地下を覗く @Architecture Museum
ふわりと広がる官能的な階段
ふわりと広がる官能的な階段 @Architecture Museum
境界が曖昧な天井と壁
境界が曖昧な天井と壁 @Architecture Museum
テントのような空間のカフェ
テントのような空間 @Architecture Museum
美しい丸窓の群れ
美しい丸窓の群れ @Architecture Museum
座・高円寺の印象的なカフェ空間
印象的なカフェ空間 @Architecture Museum
中2階のように浮かんだ床
中2階のように浮かんだ床 @Architecture Museum
ガラスの反射で増殖する丸窓
ガラスの反射で増殖する丸窓 @Architecture Museum
閉じたホールと皮膜の隙間
閉じたホールと皮膜の隙間 @Architecture Museum
地面とフラットに繋がるメインロビー
地面とフラットに繋がるメインロビー @Architecture Museum
目を細めて素早く移動する
目を細めて素早く移動する @Architecture Museum
座・高円寺の前面広場の庇
前面広場の庇 @Architecture Museum
鉄板に覆われたファサード
鉄板に覆われたファサード @Architecture Museum
建築の断面イメージ
建築の断面イメージ @Architecture Museum
座・高円寺のうねるような階段
うねるような階段 @Architecture Museum
座・高円寺の建築模型
座・高円寺の建築模型 @Architecture Museum
附記