Book Guide

【SD選書】おすすめ10選
建築や都市を学ぶひとの必読本。

SD選書、通称「黒本」。『SD選書』シリーズは、土木・建築・都市・芸術の分野を中心にしながら、1965年から途切れなく刊行され続けている鹿島出版会の代名詞である。海外名著の邦訳はもちろん、国内外の名著が、安価で読めることが魅力である。絶版になっているものも多数あるので、ここでは手に入りやすいものを前提に、間違いのない必読のものを10冊に限定して紹介したい。一応、順番を付けているのだが、どこから読み始めても楽しい読書になるはずだ。どれから読めばよいか分からない方は、上から順に読むとよいだろう。

1

ル・コルビュジエ『建築をめざして』

『建築をめざして』の表紙

建築とは芸術的な事実、感動を起す現象、構築の問題の外、それを超えた所にある。構造は、「こわれないようにする」ことだ。建築は、「感動を与える」ためだ。建築的な感動とは、作品のひびきが、われわれが支配をうけ、それを認め、それを讃えている宇宙の法則の音叉をあなた方の心の中でならす時である(p32)

ル・コルビュジエ『建築をめざして』

建築に関わる誰しもが最初に手に取る一冊。「住宅は住むための機械である」という言葉が登場することで親しまれている。この時代に現われていた工学技師の美学を賛美しながら、飛行機や船舶や自動車といった機械に美しい秩序を見出し、新精神を謳いあげる論理構成は見事である。とりわけ、パルテノンと自動車を横並びにしたレイアウトされた頁は素晴らしい。ただ、こうした目先の論理のみに目を奪われてはならない。重要なのは、コルビュジエが建築を感動を与えるものとして考え、建築にすべてを賭けたことである。この勇敢な跳躍に、読者は勇気をもらうのだ。建築へ信頼が失われたいまこそ、読むべき原点である。建築か革命か? 革命は避けられる。(詳細解説はこちら↗︎

2

槇文彦他『見えがくれする都市』

『見えがくれする都』の表紙

空間のひだの重層性は、私が世界中の様々な都市を見、歩いてみて他の地域社会になく、しかも日本においてのみ発見しうる最も特徴的な数少い現象のひとつである。私はこのような、先に玉ねぎと称した濃密な空間形成の芯とも称すべきところに日本人は常に奥を想定していたと感じる。そして奥という概念を設置することによって比較的狭小な空間をも深化させることを可能にしてきた(p202)

槇文彦他『見えがくれする都市』

槇文彦の「奥の思想」を軸としながら、高谷時彦「道の構図」、若月幸敏「微地形と場所性」、大野秀敏「まちの表層」といった重要な論文が所収された一冊。構造主義の影響を受けながら、「すき間」や「空間のひだ」や「奥」という端的な鍵概念をもって、日本の空間特性を指摘してゆく手際はあまりに鮮やかで、日本の建築家に多くの影響を与えてきた。また、地形に沿って江戸の街がつくられてゆく歴史などを識ると、都市を歴史的に理解するための眼を身につく。いまなお色褪せない名著である。(詳細解説はこちら↗︎

3

ロバート・ヴェンチューリ『建築の多様性と対立性』

『建築の多様性と対立性』の表紙

私は建築における多様性と対立性を好む。私は、どうしようもないような建築の気儘さ、支離滅裂さを好まず、絵画風や表現主義の七面倒な複雑さを好まない。その代わりに私がここで取り上げようとするのは、芸術には欠くことのできない何かを含んだ、現代の豊穣で曖昧な経験的事象に基づいた、多様性と対立性を備えた建築である(p33)

ロバート・ヴェンチューリ『建築の多様性と対立性』

モダニズムの高貴な純粋主義的な視点に対して、建築における多様性と対立性を重要とする視点への価値変換を企て、ポストモダニズムを切り拓いた一冊。「レス・イズ・モア」というミースの言葉を「レス・イズ・ボア」と言い換えて批判したことは有名である。この言葉が明らかにするように、排除することで得られる安易な統一ではなく、受け容れることで得られる複雑な統一性が主張される。この書物によって、純粋な秩序を希求するというモダニズムの暴力が暴露され、英雄的な建築家像の虚偽が露呈した。見事なのは、多岐にわたる歴史的な建築の事例から、多様性と対立性を切り出してゆく手際である。ぜひ持っておきたい一冊である。(詳細解説はこちら↗︎

4

長谷川尭 『神殿か獄舎か』

『神殿か獄舎か』の表紙

その根源的な事実とは、それをいかなる華麗な、また錯雑な虚妄によっておおい隠そうとしても被覆しきれないあの事実、建築家とは所詮、獄舎づくりにすぎないのだ、という多くの神殿づくりの思惟のなかには、決して浮かんでくることのない、まさに底冷えのする認識であったのである(p178)

長谷川尭 『神殿か獄舎か』

明治でもなく、昭和でもなく、その狭間のにある闇としての大正建築に光をあてた建築史を描く一冊。日本の表現派として、後藤慶二から分離派建築会に至るまで、大正建築の歴史の美しい叙述は見事である。ただし、この書物は建築史として意義を持つばかりではない。むしろ、大正の建築史をだしにして、建築や建築家とはなにかという本質的な問いに踏み込んでゆくのが素晴らしいのである。建築は、その建築が人に利用されることを前提とする以上、利用者の生を圧迫する自由を奪う監獄であり、建築家は獄舎づくりをすることしかできない。この根源的な事実は、いまなお見過ごす訳にはいかない。(詳細解説はこちら↗︎

5

バーナード・ルドフスキー『建築家なしの建築』

『建築家なしの建築』の表紙

これまでの建築史は、権力と富の記念碑を築いた建築家たちの紳士録みたいなものである。それは、特権階級の、特権階級による、特権階級のための建築物、つまり真の神々や、いかがわしい神々の神殿、財力にあるいは血統に支えられた王族たちの館の傑作選集にすぎず、庶民の住居については一言も触れられてはいないのだ(p15)

バーナード・ルドフスキー『建築家なしの建築』

1964年にニューヨーク近代美術館で開催された「建築家なしの建築展」に併せて出版された一冊で、ヴァナキュラー建築の関心を引き起こしたことで知られる。有名な建築家がつくった訳ではない、無名の工匠が手がけた世界各地の「建築家なし建築」が、豊富な写真と解説で網羅的に紹介される。こうした系譜のなしの建築は、個人の建築家の仕事に着目した従来の建築史では扱われていなかったものの、周囲の自然環境を取り込むなど、生活技術に即した素朴な魅力に満ちている。当書に並べられた写真の群れは、現代の建築家の想像力をかきたてると同時に、利益や進歩に傾きすぎた現代を批判する材料となる。(詳細解説はこちら↗︎

6

篠原一男『住宅論』

『住宅論』の表紙

美しい響きをもった住宅をつくらねばならない。それは現代社会のなかにおける住宅と住宅設計が見失ってはならない存在理由なのである(p108)

篠原一男『住宅論』

1958年から1967年に書かれた、住宅建築に対する篠原の考えをまとめた小論集。「すまいというのは広ければ広いほどよい」、「住宅は芸術である」、「住宅は美しくなければいけない」、「住宅はその施主のために設計してはならない」などの印象的な強い言葉が並ぶ。これらの強い言葉だけ切り取るならば、建築家が独裁的な主張をしているように見えるが、決してそうではなく、篠原が建築家としての役割と責任を背負うという覚悟を表明した言葉なのである。この建築家としての凛とした姿勢が、日本の建築家に与えた影響は計り知れない。果たして、美しい空間をつくるのは建築家の義務だと率直に表明してはいけないのだろうか? 建築家の存在理由が揺らいでいる現在、読みなおさなくてはならない一冊である。

7

レイナー・バンハム『環境としての建築:建築デザインと環境技術』

『環境としての建築:建築デザインと環境技術』の表紙

一方、建築の理論や歴史や教育は、構造物が必要な環境管理を十分満たすという明からさまな仮定に立って進んできたとはいえ、一般の人類は、何の補助もない構造物はすこしも適当ではないという事を経験から常に熟知していた。パワーというものは常に一年のうちのある部分、毎日のある時には消費されなければならなかった。冬には火を焚かなければならなかったし、日が暮れればランプをともし、日中の暑い時には、扇子を使う筋力や噴水のための水力が使われた(p24)

レイナー・バンハム『環境としての建築:建築デザインと環境技術』

従来の建築史が、建築の構造、いわばカタチの側面のみに着目していることを問題視しながら、建築のパワー、いわば空調、換気、照明、設備といった環境制御技術の側面から建築の歴史を紡いだ一冊。したがって、従来の建築史には登場しないであろう、空気調和設備を発明したウィリス・キャリアが大胆に取り上げられたり、フランク・ロイド・ライトの建築が環境制御という観点で評価されたりする。バンハムの試みは、カタチばかりを評価する偏狭な建築史のなかに、環境制御技術という新しい見方を投げ込んだ点で目から鱗である。ところで、環境破壊が問題視され、サスティナブルデザインが隆盛する現在において、環境制御技術を盲信する訳にもいかなくなっている。環境と建築という主題は引き続き考えなくてはならず、両者の関係性を再考するためのきっかけとしてお勧めの一冊である。(詳細解説はこちら↗︎

8

井上充夫『日本建築の空間』

『日本建築の空間』の表紙

すなわち日本建築は、実体的傾向の強い彫塑的構成から、絵画的構成を経て、次第に空間的なものの表現を展開させ、ついに行動的な空間の構成を完成した、ということができる。しかもここで注意しなければならないのは、このような発展は、宗教建築とか住宅建築とかいう建築の種類や、大陸系の建築であるかどうかというような差異を超えた一様な現象であって、いわば日本建築史全体を蔽う大きな動きであったということである(p288)

井上充夫『日本建築の空間』

アロイス・リーグルの様式論に影響を受けながら、美学的な観点から日本建築の空間的発展の通史を描いた古典的名著である。この本の面白さは、寺院・宮殿・住宅・神社といった建築の種類によらない、空間的発展の歴史を体系的に描いたことである。すなわち、宗教建築の歴史とか、住宅建築の歴史といった限定的な枠組みからではなく、それらを空間という横糸で紡ぎながら、日本建築をひとまとめにして通史を語りあげたことである。当然、すべてをひとまとめに語る過程において、多少無理をする部分は出てくる。しかしながら、それだけに建築史家としての覚悟が伝わってくることが魅力である。建築史は単なる報告ではなく、一つの主張なのだから。また、「行動的空間」という新しい概念を導入しながら、日本建築の特徴を記述する箇所は独創的で読み応えがある。(詳細解説はこちら↗︎

9

クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ『実存・空間・建築』

『実存・空間・建築』の表紙

したがって、建築家の任務とは、人がもつイメージや夢を具体化することによって、人が一つの実存的基盤を見いだすのを助けることにあるのである(p218)

クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ『実存・空間・建築』

人間と空間は無関係に存在するものではない。言い換えるなら、一方に空間があり、他方に人間があるというように切り分けて考えることはできない。なぜなら、人間なくして空間というものは存在し得ないからである。それならば、人間と空間はいかに関係するのだろうか? さらに言えば、人間と建築はいかに関係するのだろうか? このような現象学的な問いに答える手引きとなるのが当書である。ハイデッガー、バシュラール、ボルノウらの哲学者や、ゲシュタルト心理学を参考にしながら為される分析は緻密で美しい。ピアジェが引用されているあたりが古く感じられ、更新が必要な箇所があるものの、人間と空間の関係性を考えるための第一歩として間違いない。建築や都市を学ぶひとは、このような現象学的な研究があることを知っておく必要がある。(詳細解説はこちら↗︎

10

ロバート・ヴェンチューリ他『ラスベガス』

『ラスベガス』の表紙

皮肉にも、近代建築は、明白な象徴を用いることや、軽薄なアップリケのような装飾を拒否しながら、実は建物全体を歪め、ひとつの大きな装飾と化してしまっているのである。装飾を「分節化」にとって代えることで、近代建築は自らあひるとなってしまったのだ。(p137-138)

ロバート・ヴェンチューリ他『ラスベガス』

ヴェンチューリの著作から学ぶことはあまりに多いのは、建築家として何が出来るかを常に考えているからである。その分析手法が美しく挑発的であるのは、批評家としてではなく、建築家としての確固たる主張があるからである。すなわち、批評が建築に奉仕しているから魅力的になっている。第一部では、ラスベガスのストリップが分析される。ストリップとは、ホテルやカジノ、エンターテイメント施設などが数多く並べられたエリアで、一見すると無秩序にみえる大衆的な風景なのだが、自動車からの見た風景という切り口を導入することで、建築の象徴的な意味が抽出されてゆく。第二部では、「あひる」と「装飾された小屋」という概念を用いて、醜くて平凡な建物が支持されるのだが、その挑発的な文言は新しい美学を予感させる。これら分析は、モダニズム的な画一的な秩序の批判として機能しながら、新しい建築表現を感じさせるという点で輝いているのである。ヴェンチューリの透徹されたアイロニカル態度は、建築家の傲慢を静かに笑いとばす。(詳細解説はこちら↗︎